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月島の秘密

「おばば」

「なんじゃい」


「つれないのお…今夜は柿羊羹かきようかんを持ってきたのだぞ」

その涼やかな声の主は、まさしく月島だった。


靜山は息を潜めた。


「なに!? 柿羊羹じゃと」

老婆は嬉々とした声をあげた。


戸口を薄くあけ靜山は、こっそりと覗き見た。

包みをのぞいて二人は、笑いあっている。


「仕方ないのぉ。柿羊羹を出されては」

老婆は番台の下から、青い分厚い本を三冊取り出した。


それは洋書であった。


「ほうぼう手をつくして、やっと出島の知り合いから送ってもらったんじゃ。

南蛮の……ふぃ、ふぃそろひーとかいう本じゃったな」


「そうそう。そうじゃ!フィソロフィー!おお、アルケミーもある!すごいではないか、おばば。でかしたぞ」


月島は老婆に抱きつかんばかりの勢いだった。


想像も出来なかった月島の嬌声に、靜山は更に身を乗り出してのぞき見た。


「そなたは無理ばかり言う。そんな南蛮書ばかり読んでいったい何をするのか……金も法外にかかることじゃ」


目を輝かせてページを繰る月島は、老婆の言葉などもう耳に入ってなかった。

何か、タガがはずれたようだった。


「これは、やはりエゲレス語」

ぶつぶつとしゃべり続けると、持ってきた風呂敷包みから、分厚い赤い本を取り出した。


青い本を読んで、またしばらくすると今度は赤い本を開く。そして、何かを書く。

辞書を引きながら読み、翻訳していることが分からない靜山には、月山の行動が不可解であった。


「始まったか」

老婆は慣れたように、行灯あんどんと火鉢に火を入れると、そっと書庫から出た。


「あれはな、書に没頭しておるのよ」

靜山のいる部屋に入ってきた老婆は説明した。


「書を?お読みになっているのですよね?」

「それも南蛮の書じゃ。以前は論語やら、般若経やらに凝っておった」


老婆はあきれたように首をふった。

「あきれたやつじゃ。知識欲もあそこまでいけば魔物じゃ。女の身で、この大奥で……勉学をおさめて何とする」


「それで、月島さまは何とおおせに?」

「自分は、ただこの世のことが知りたいだけだ、勉学をおさめたい訳ではない、と言うのじゃ」


しゃべりながら老婆は布団を敷き、着替えをはじめた。


「この世のこと?が、書に書いてあるのですか?」

「さあての、わしには分からぬ。多少のえきなら出来るがの。 

だが、月島は書には色んな世界が存在する、と面白がっておるのだ」


「いろんな世界……でございますか?」

「だ、そうだ」

よっこいしょ、と老婆は布団にもぐりこんだ。


「わしはもう寝る。そなた、帰りたければ帰るがよい。

どうせ、月島は気づかぬ」





 やさしくゆすられて靜山は目を覚ました。


「靜山」

眩しい光の中には、寝ぼけた子供のような顔をした月島が立っていた。


化粧もせず、崩れやすい片はずしの髪が、ほとんどほどけていた為、本来のあどけなさが更に際立ってみえた。


「そろそろ朝の勤めの時間じゃ。起きよ」

「つ、月島さま!」


驚いて立ちあがった拍子にドサリと肩から、打ち着が落ちた。

いつの間にか眠ってしまった靜山に、月島がかけてくれていたものらしい。


書に没頭する月島から目が離せなくなって見入っているうちに眠ってしまったのだ。

靜山にとってこんな失態は、あるまじきことであった。


「わたくしは非番なので、大きな仕事はないが。昨日の件もあって、皆が心配しておるのでそなたは先に帰ったほうがよい」

「は、はいっ」


驚いたのと恥ずかしいのと気まずいのが、混ざりあって靜山は顔をあげられなかった。

逃げるように書庫を立ち去りかけた時、


「待ちゃれ」

ふいに手をつかまれた。


月島はそのまま靜山の頬から髪に、ふわりと手を触れた。


「髪が乱れておるではないか。せっかくの美貌が台無しじゃ。そなたは もうじき上様のお声がかかる身なのじゃぞ。誰かに見られでもしては大変じゃ」


間近で見る口元に微笑をたたえた月島の素顔。眩しくて胸が高鳴り、靜山は息ができなかった。


頬から髪をなであげる指は柔らかくて、優しくて。


自分はめちゃくちゃな姿をしているクセに。それが恐ろしいくらい艶やかなのに。

声がかり候補の靜山に気をつかうのは、大奥御年寄の意識からだけだろうか。


それを思うと胸がちりりと痛んだ。


「月島さまは、どんな世界にお住みになっているのでしょうか」

「ん?」


「書で色んな世界にいける、と書庫番の老婆が申しておりました」

「ああ」

月島はニヤリと笑った。


「いけるぞよ。天竺でも唐でもオランダでもエゲレスでも、あの世にも」

「あの世にも?!」


「……なあ、靜山、そなたこの世は確かなものと思うか?」

そう聞かれると、急に足元があやふやになった。


般若心経では、この世は“くう”と説かれているし、昔からこの世は“夢のまた夢”“無常”と言われてきたからである。


「そうじゃ、いい加減なものじゃ。だがな、この世でわたくしたちは色んな苦しみにあう。ほんに辛いこと、耐え切れぬことばかりじゃ。こんなに辛いのに、それを“空”でした、と言われてもな……」


自嘲気味に月島は笑った。


「だからわたくしは自分が納得できるまで、書を漁っておるのじゃ。誰か教えてたもれ、助けてたもれ、と悪あがきをしているのじゃ」


大奥のトップに位置するこの女性に、そんなに苦しむ何があるのだろうか。

確かに月島は権力に執着が少なそうに見えたし、何か虚しく空ろな時があった。


「それで……お分かりになったのですか」

「分かっては遠のきじゃ……だが、自分自身であれ、ということ一文には衝撃をおぼえた」


「自分自身?」

「我々はいつも何かに惑わされておる。何かにならねば、何かをなさねば、と思わされておる。


大奥の年寄、武家の娘、母親、女のつとめ。他にも他人と比較して、自分にないものを数えて苦しんだり、嫉妬をしたり、はたまた出世や蓄財に励んだり。


……そんなこと本当は意味がないのだ。自分で作った、大きな山に苦労して苦労して登っているようなものなのだ。


『ああ、いい気持ちだ』と足を投げ出して、気持ちのよい草の上に寝ころんでみたところを想像してみよ」


足を投げ出す、など、娘としてあるまじき姿であったが、ずいぶんと幼い頃はそんな事をしていたような気もする。


靜山は目を閉じて想像した。

春の草の香りを含んださわやかな風と、暖かな陽射しが、頬を撫で、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてきた。


靜山の表情に生気が灯った。

月島はその美しさと清々しさを見て微笑んだ。


「その時の気持ちこそ、自分自身でいる状態なのだ」

「これが?」


「そうじゃ。その気持ちが本当の自分の姿なのだ。その姿でいることだけが大切だそうだ。

例え辛くともでも、病みやつれていようとも、その気持ちでいられれば必ず状況はよくなる……」


「本当でしょうか」

「分からぬ……が、わたくしはちょっと自分で試してみた。少しは効果があった気がする」

月島は笑った。


「どうしてでしょう?」

「一番自然な状態だからだそうだ。人間は無理をするとひずみが出る。ひずみはやがてどこかに溜まり、悪い状態につながる。


人間の知ることが出来る世界は、知れているそうじゃ。カエルは動いているものしか認識出来ないという。なら人間が見ている世界も、仏や神からみたら、まだまだ目隠しされている状態なのではないか?」


靜山は驚きのあまり声が出なかった。


月島の話しは、あまりにも突拍子がなくて、それでいてもっともっと聞きたい魅力に溢れていた。


「ああ、いかん! もう時間じゃ」

配膳係りたちの声が遠く近くで聞こえ出した。


「ああ、でも……」

名残惜しそうにぐずぐずする靜山を、月島は書庫から押し出した。

仕方なしに、早る胸を抑えて靜山は廊下を歩くしかなかった。


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