生立ち2
「本当に恐ろしかったので何度も刺した……みたいだ。……よく覚えておらぬ。後で奉行所の役人がそう言っておった」
「役人に捕まったのですか?」
「いいや。めずらしく母が動いたのだ。……凶器を川に捨て、わたくしについた返り血をぬぐい、それらがついた布切れを燃やし。そして外から賊が入ったように細工をした。奉行所の役人が来たときは、わたしと弟を奥へひっこめたまま泣きながら芝居までしておった。……あの時だけは」
急に小夜の表情が歪んだ。
「母に守ってもらえたようで嬉しかった……」
目にたまった涙がぽろぽろと落ちた。
あかりは小夜をしっかりと抱きしめた。
この時、小夜は母親なりに自分を愛してくれていたことを理解した。あれが彼女の精一杯だったのだ。
だが、あかりは静かに怒っていた。
――これで許すなんて不均衡だ――
たったあれっぽっちの行為で小夜は愛をもらえた、と泣いている。
娘をかばうのはアタリマエではないか。普段、どれだけ母親が愛情を子どもに与えていなかったのか分かる。
父親の罪はもちろん大きい。絶対に許せない。どうやったらそんな狂気が出来上がるのか、全くもって分からない。母親がどうにも出来なかったのも理解できる。
が。
何もしなかった、のは罪だ。
実際、娘が父親を刺すまで追い込んだのは自分のせいでもある。いや、これは彼女ひとりのせいではなく綿々と歴史的に続いてきたものだろう。母の母から、そのまた母親から、と。
しかし個人としてみても小夜に対する母親の負債は大きい。小夜の罪をかばって購えるには至らないほどなのだ。
父親を殺させるまで至らしめた負債。その後の生活・意思決定一切を背負わせてきた負債。生きている限り、その依存という搾取はずっと続く。無意識に。本人は悪いとも何とも自覚がないぶんたちが悪い。
分かりやすい小夜の父親の罪に比べて、母親の虐待は分かりにくい。
弟が自立できない体で生まれたのは、そんな母親の自律を促す存在として〝在る〟からかもしれない。
いまふたりきりになって、ようやく〝自分が〟がしっかりしなければ、と思っているだろう。
小夜はもう自由になっていい。十分ふたりの面倒をみてきた。そう、ならなければならない。代々と続いてきた呪いの鎖を引きちぎるためにも。
小夜を抱く手に力が入った。
「大丈夫です」
涙のたまった目で小夜はあかりを見た。
「わたしがそばにいますから」
「……うん」
雲が月を被い、少しだけあたりが暗くなった。
「そのあと」
少し落ち着くと小夜は口をひらいた。今までのことを全部しゃべらなければ気がすまなくなっていた。
「犯人探しは、うやむやになった。奉行所はこちらが熱心に言わぬ限り力は入れぬのだ」
泣いた恥ずかしさを誤魔化すためか小夜は早口で続けた。
「それでも、わたくしはいつ捕まるか、と恐ろしくて……そんな折りに伯父がまた来て大奥に入らぬか、と話すので、生活のこともあったし、入ることにした。
わたくしにしたら大奥に入ってしまえば、もう役人に捕まらない、と思ったのだ。……浅はかな考えじゃ」
鼻をすすりながら小夜は笑った。
「伯父さまはよく大奥に入るコネがおありでしたね」
「伯父は本家の旗本に顔がきいた。わたくしを本家の養女にし、出世でもすれば恩恵にあずかれると思っておったのだろう……半分以上は親切心でやってくれたのだから、感謝しておる」
「大奥では最初どちらへ配属に?」
「もちろん御目見え一番下っ端の御三の間じゃ。しかし、まあ、入ったものの大奥はそんな簡単なところではなかった。雑用仕事は山もり、先輩は陰湿……じゃが、わたしは実家にいるよりは気がラクだった。
奉行所もここまではこられん、とそれなりに安心しておったし。……でも、いちばん困ったのは、金がなかったことじゃ」
大奥の下働きをやったことがなかったあかりだが、女の園は金がかかることは分かっていた。
それは上から下まで同じだった。役職がつくとワイロなどでどんどんと潤うことが出来るが、そうでない者は給金だけで女の〝つきあい〟をしなければならない。
おいしい菓子を送ってきた、だの、めずらしい化粧品があるの、と同僚たちは振舞ってくれる。そんな中、もらってばかりの身は肩身がどんどんと狭くなるのは必定だった。実家が金持ちの場合はよいが、そうでない娘はことさら苦労をした。
小夜は伸びをする代わりにぐぐっと首を伸ばした。
「わたくしが幸運だったのは、歌舞が得意だったことじゃ。貧乏御家人であっても手習いは父も必要だと思っておったみたいで、ずっと続けることができた。それゆえ……」
「上様の目に止まったのですね」
御三の間の女中は大奥の出し物の時、借り出される。遊芸が得意でなければならなかったが、それだけでは将軍の寵愛を受けるには確実でない。何か……そう、小夜のような圧倒的なパワーが必要だった。
「わたくしも必死だった。なんとか上様の気をひいて、この貧乏生活から出なければ、とそればかり思っておった。皆に物をもらってばかりでは困る、着たきりすずめじゃみっともない、そんな即物的な動機であった。寵愛を受けて出世する、とか、栄誉を勝ち取るなど、望みが高すぎて現実感がなかったのだ」
小夜は頬をゆるめた。
「けれど、どうしてお中臈から、お年寄りへ? 将軍のお手つきであれば、役職持ちなどしなくてよろしかったのでは」
「わたくしが希望したのだ。お子を産めないお中臈のまま、ただ食べて寝る生活は耐えられなかった。なにか、働いておるほうがよかったでな。貧乏性そのものじゃ。そのおかげで、ずいぶんと勉強も出来た。世間しらずの小娘にはそれなりに収穫もあったが……」
「が?」
「いつしか考えてばかりの人間になっておった。心をゆったりとする余裕を忘れてしまったのじゃ」