生立ち1
富士山を上り始めて一日目。
小夜たち一行は六合目で宿を取ることになった。
彼らは、富士講の中でも革新的な〝不二道〟のグループに伴って登頂していた。
不二道の創始者、小谷三志は四十年以上前に女性を伴っての登頂を達成していたのだが、何よりもその教えが先駆的だった。
陰陽優劣なき和合、つまり男女平等、そして上下差別のない四民平等を説いていた。小谷三志は、その〝実践としての教え〟を世に広めていった人物である。
その三志は数年前に亡くなっていたが、教えを引き継いだ〝不二道講〟は熱心に活動を続けていた。
富士山登頂に慣れた不二道講の助けがなければ、小夜とあかりはここまで来ることは出来なかったと何度も思った。男装をしていても誤魔化しきれなかっただろう。不二道のグループは周りを囲み、小夜たちを隠す術に長けていた。
徐々に緑が少なくなり空気が薄くなるお山に、小夜たちは自然の鉄壁なまでの厳しさと美しさを感じた。
宿についた時、お山の挑戦から逃れられたようで、小夜とあかりは倒れこんでしまった。そして夕食もそこそこに寝入ってしまった。
どれくらい時間がたったのだろう。
窓から煌々(こうこう)とまぶしい光が差し込んでいた。
満月のひかりだった。
空に近い場所であり、空気が薄いため、普段の十倍は明るく感じる。
女ふたりの両隣に龍才と旭がいた。さすがに疲れたのかぐーぐーと寝ていた。不二道講の人々に安心していたのもあったのだろう。
小夜は、こっそりとあかりを起こした。
「外に出ぬか」
それは息を飲む光景だった。
雲海は眼下に絨毯のように敷きつめられ、中空には奇跡のような圧倒的存在感の満月。その光源の強さは異常でこの世とは思えず、薄くたなびく雲を巻き込んでいた。空と雲海の中間をうめるごとく富士山の稜線がこれまたくっきりと幻想的に存在していた。
「なんか……おかしな感じです」
あかりが朦朧とした面持ちで口を開いた。
「あの世とやらはこのような感じであろうか」
「……そうかもしれません」
そのまましばらくじっとその光景を眺めていた。
気付くと、ばらばらと幾人かの登頂者が同じように月を眺めている。誰もがぼそぼそと話しあったり、拝んだり、念仏を唱えたりしていた。
「お山に登るのが病みつきになるのが分かる気がする」
小夜は、近くにあった小屋の長いすに腰を下ろした。あかりも隣に座る。
「みんなにも見せてあげたいな」
あかりは親方やサエ、勘介を思い出した。大奥のまつ、家賢も。
そして、その流れで素朴な疑問が沸いてくるのを感じた。
「小夜さま、ご家族はどうなったのでしょうか」
普段なら絶対に口に出来ないことを言葉に出してしまった。
しばらく驚いたようだった小夜だがさらりと答えた。
「さあ……」
手にあごを乗せると、風がふいたな、とでも言うように続けた。
「どうなったかの。母と弟は、わたくしは火事で死んだ、と今でも思っておるだろう」
「……それでいいのですか」
「わたしはそのほうがラクじゃ。……もしわたくしが本当に死んでおったら、母と弟はどのみち自分らで何とかせねばならぬのだ。どんなに厳しくともな」
小夜のその顔からは何の感情も読み取れなかった。
「わたくしが生きている、と思うから頼りたくなるのだ。もう、頼られるのはごめんこうむりたい。金には困らんのだ。(火事の死亡なので)幕府から見舞金も出ておるだろうし、貯めた金もある。放蕩せねば大丈夫じゃ」
なにかあかりには納得いかなかった。頼る、とか頼らないとか、お金に困るとか、そう損得だけで勘定している小夜に違和感を持った。
もし、自分が生きていて、家族が自分を死んだ、と思っているのなら、どうにかして知らせて安心してもらいたい、と思うものではないだろうか。頼る、頼らない、とかでなく安心して欲しい、という想い。
それが小夜からは感じられなかった。
「わたしが小夜さまの家族だったら息災である、とだけでも知らせていただきたいです。どこかで元気にされている、と分かっているだけで嬉しい。亡くなったと思い続けるのは、その……とても……つらいですから」
「ああ、違うのじゃ」
あかりが泣きそうになったのを見て、小夜はあかりを抱き寄せた。
「結局……わたくしは、家の者が嫌いなのだ。世間では子は親を敬い、父親は強く、母親は家族を影から支え、と言われておるが……」
次の言葉を捜すように、間があいた。
「それはその像に人物が合っている場合にはよいが、我が父は姑息な男だったし、母は誰かに頼ることしか知らぬ人形みたいな女じゃった。弟も……頭が弱かったしの。武家のひな型に沿うには大いに無理があったのじゃ」 *ひな形……モデルケース
そうだ。墨越から少し聞いていたが、そんな家族の中では小夜にどうしても負担がかかってしまう。
今でいう機能不全家族。現代にも続く大きな問題。そういった家族の犠牲になるのは大抵子供で、誰かが犠牲になることでかろうじて成り立っている場合が多い。ただ、それも犠牲者が破滅するまでで、やがては家族全体が崩壊するのである。
「だが、そんなこと分からなかった。子どもは親を敬わねばならぬと、教えられておるのでの。わたくしも一生懸命親の力にならねば、と思っていた」
そして少し悔しそうに爪を噛んだ。
「でも……わたしが十二の頃くらいにはもう父はおかしくなっておった。最初は酒に酔って暴れるだけだったのだが……そのうち、しらふであっても関係なく家の者に当るようになった……。そのうちだんだん暴力は激化して……命の危険を感じるようになった」
小夜の顔が人形のようになり、それは、あかりにも伝染した。
「わたしが十四になる頃にはもう手がつけられなくなった。よく裸足で外へ逃げ出した。何度か父の親族に相談に行ったが、誰も実際的には力にはなってくれなんだ。……唯一、母方の伯父が何度か父に説教をしてくれたのだが、半分以上狂っている父には、もう何を言っても通用しなかった」
ここで小夜は目を伏せた。あきらめたような表情だった。
「そんな折、伯父は、わたくしに大奥に入らぬか、とある日提案してきた。わたしの容色に目をつけたのだ。上様の寵愛に叶えば裕福になり生活もラクになって父親も落ち着くのでは、と。
よくそのように簡単に言えたものじゃ。知らぬは愚かなり、だ。……まあ、それはそうとして、わたくしは母と弟を放って大奥へなどいけなかった」
小夜は悲し気に微笑んだ。
「けど、そんなこんなで状況はますますひどくなり、とうとうある日」
ここで言葉を切った。噛んでいた爪をはずすと、今度は口を塞ぐように被い、深い目になった。
「わたくしは父を刺したのじゃ」
予測できた答え。
あかりには途中から分かっていた。小夜が父親と命をかけて戦ったことが。
重い。
愛するべき関係が憎しみあうものへとなってしまう。まだ少女であった小夜にとってどれほどの心理的負担だったろうか。