将軍への私信
家賢は旭からの文を読んでいた。
もう、これで何通目であろうか。最初は自分たちのいる地点を完全に隠していたが、この頃は何となく土地感が含まれるようになっていた。家賢が追っ手を出している気配がなかったからである。
(以下、現代語訳)
謹啓
行く道々に釣鐘人参や萩の花が見られるようになりました。そろそろ秋の気配がしております。先様<上様とは書けない>は、健やかにお過ごしでしょうか。
わたくしどもは、先ごろ、築さま<月島の月にひっかけた呼称> の考えで大山講の集まりに出席し、霊山信仰について色々と勉強いたしました。霊山を信仰する有名な講でありますが、その熱気は聞きしに勝るものでした。 *講……グループのこと
信仰の気迫を幕府が恐れる必要はないと思いますが、恐ろしいのは築さまです。中にいる熱心な女信仰者たちと懇意となり女人禁制のお山に登ろうかと計画をしておられるのです。
沈さま<あかりのこと>は、築さまの言うことには何でも従ってしまわれるので止めるのは、もっぱら随身する男ふたり。これが今までことごとく失敗に終わっているのは想像に難くないと思います。
わたくしは築さまがお山に登りたい理由は、講の者と違うように推察しております。「規律を破って女人が霊山に登るなど罰が当りますよ」と言うのですが
「女人は血の穢れがあるから入れぬ、というやつであろう。そんなもの山修行中に女をみて欲情を我慢できぬ男が作った教義じゃ。それよりわたしはお山を大切に信仰している者を愚弄するほうが申し訳ない。こっそりと男装をして登ろう」など、ワケの分からない返事が返ってくるのです。
しかし、どうしてそんなにお山に登りたいのか、と尋ねると「日の本のてっぺんに行ってみたい」と言われるのです。天竺に続く西蔵<チベット>は、世界のてっぺんとされるほど高いお山があって、そこは壮大な風景が広がっており、天国を身近に感じられるのだそうです。
西蔵では、その山は女人禁制などではなく、誰でも登っていいのだそうです。仏教の祖地<ルーツ>である天竺に近い西蔵の制度のほうが正しいはずである、と築さまは言われています。口では築さまに勝てません。
先様に申しあげておきたいことがございます。築さまが何を思って奥<大奥のこと>を出たのか、旅をされているのか。
「日本はこれから大変な時代に突入する。異国船がその引き金を引くだろう。新勢力と保守陣営がお互いの主義主張を戦わせて国内・幕府は荒れに荒れるだろう。侵略されるという運命をとるやもしれぬ。
そんな時代に個人はどう生きればよいのか。身分によっては引くに引けぬ立場の者もあろう。けれど、大方の人間は選択が出来るのである」
まずはこう申されました。そして、実際に築さまは奥を出るという選択、沈さまを助けるという選択をされたのです。動乱の時代、代々の規則はもう通用しないということが築さまには分かっておられました。
「そんな時、指針を示す者が必要だ。だが、それは本当に真理を持ったものだけがしてよいことなのだ。心正しき者、宇宙の真理を体得した者。
だが、混乱状態の中で人々は恐れ、迷い、怒りによって正しい指導者を選ぶことは出来ないだろう。
さて、そうなるとある程度は波に任せるしかない。波の中で個人としてどう生きる、か。自分の道ばかり貫こうとしても、恐らく無理が生じてくる。さあ、どうしたものか」
築さまは旅に出て、色々な人の考えを知りたい、と思われました。そして、ご自分のお考えを深めたり、また、触れ合った人々と影響しあったり、してみたかったのです。
「一番大切なのは、外が大嵐であろうと心のうちに平安を見つけることである。それは決して外に無関心であれ、というのではない。ただ、外に向きすぎた意識を、自分の内の声にも同じように耳を傾けよ、と言っているのである。
これが、どれだけ大変なことか、は、わたくしは分かっている。人間は反応の動物であり、心のうちを探求する技術は一般には広まってこなかった。禅や瞑想も、限られた身分のものだけである。
わたくしはどうすれば、もう少し簡単に心の声を聞ける方法があるのか知りたい。日本もまだまだ色んな場所があり勉強するには事欠かぬ。旅の中で、心の内を知る大切さを話し、伝える技術を磨こう、と思う。
何年もかかるかもしれないし全く徒労になるかもしれないが、旅をすれば楽しいこともまた多い。楽しみながら行動していくのはよい。
社会の大儀のため、命を捨てて大望を果たすのもよいであろう、ただ、その場合、常の心の中にざわざわとしたものを抱えておることが多いのだ。わたくしは不安を生きてきたのでよく分かる。
不安感ゆえ外の世界を安全に平穏を保とうとするのだ。だが、それは諸行無常の世、不可能なこと。不安を誰よりも知っているわたくしだから分かる。心の平安を求めることはとても大事なことなのだ」
沈さまに聞いたことがあります。築さまは安心感のない家で子ども時代を過ごされたのではないか、と。頭のよい繊細な子どもは、安心感のない家で育つと、非常に不安感が強くなるそうです。
それはとても不幸なことです。だから。そんな築さまを沈さまは放っておけないのです。
築さまを真に理解し、支え、守っているのは沈さまです。本当は築さまは沈さまに守られているのです。厳しい旅の中、迷い、困難に出会ったときに沈さまはきっちりと築さまをお助けなさいます。
その関係は、見ていて羨ましく微笑ましい光景であります。あれはおなご同士でなければ、難しい関係に思えます。先様、どう思われますでしょうか。
さて、長くなりました。このあたりで失礼させていただきとう存じます。秋も深まってまいりましたゆえ、どうぞ、お体にはお気をつけくださいませ。 敬白 旭
家賢は顔をあげて庭を見た。
菊の鉢がきれいに並べられ、整然とした枯山水が人工的なニオイをかもし出すのを感じた。旅の道々に生えている野草とは対極をなす気持ちがした。
――わしはしょせん、籠の中の鳥なのだ――
一瞬、大きな孤独を感じたが、手の中にある旭の文がそうでないことを告げた。
『我々は上様と共に旅をしているのですよ』そう言っている気がしてならなかった。
――そなたたちはわしの希望だ――
ホッとしたように息を吐くと、旭の幼馴染であるお庭番を呼んだ。
「そなた、旭や月島たちの手形を発行して届けてくれぬか」
それを聞いてお庭番・闇彦は少し微笑んだようにみえた。旭の手紙はすべて闇彦宛てに届いていたのだ。
「かしこまりました」