賽は投げられた
迎え出た小夜が旅の身づくろいをしているのを見て、旭は不思議に思った。
「その格好は?」
「今から、泥棒をして逃亡するのじゃ。そなたも早う支度せえ」
「ど、泥棒?」
「大きな声を出すでない!」
家の戸口に突っ立っていた旭を家の中に引き入れた。戸をぎっちりと閉める。
「そなたは、お庭番のくせに声が大きい!」
「や、ですが月島さま、何を盗むんですか」
「そなたは黙って、わたくしの後に着いてくればよいのだ」
内容を聞いてしまえば家賢に報告する義務が発生してしまう。小夜はいちいち答えるようなことはしなかった。
「今から? ですか?」
真昼間である。それも真夏。ぎんぎらと刺す太陽の光線はどこにも影を作らないほどだった。
「そうじゃ。そなたは、その台車を引いてわたくしの後をついてまいれ」
仕方なく、汗をぬぐいながら旭は、小夜の後をついていくことにした。
江戸時代、真夏になると、ほとんどの町人たちは働くことはしなかった。商人たちは、朝と夕方だけ商売をしたり、町人たちは銭湯で一日中ゴロゴロだべって過していた。したがって、町の通りにいるのは、小さな子どもくらいである。
そんな中、笠をかぶった女とガラガラと台車をひく大柄な男が、通っても誰も気にかける者はいなかった。
「ここは……江川さまのお屋敷?」
表札を見上げると反射光が目にはいってくるので、旭は目を細めた。
本所にある江川太郎左衛門の屋敷は、広く、有志たちのサロンのようなものも兼ねていたが、今はひっそりとして人影もなかった。
「あれ、月光さま」
屋敷の庭から気付いたのは、初老の下働き風の男だった。
「しばらくお姿を見ませんでしたが、どうされましたか」
たしか嘉助という下男だ。この様子では、小夜がいなくなった事など、詳しいことなどは何も知らないようだ。
「今日は、お預けしていたものを取りにきたのです」
「はあ…… お代官さまは、今お留守で」
それは想定済み。江川は月末に定期的に留守にする。
「大丈夫です。わたくし、もう伝えてありますから。勝手にもってまいりますわ」
「左様でございますか」
「申し訳ないんですが嘉助さん、運ぶのにちょっと人手が足りませんので、下男を何人か集めてもらえませんか」
「そんなに大きなもので」
「ええ」
小夜はにっこりと笑った。
がらがら、がらがら…… 真夏の道を、数人の男たちが大きな荷物を運んでいく。藁で周りを包まれた物体を台車にのせて押していく。しかし、それでも気にかける人はいなかった。
番所の前でさえ何も言われなかった。あまりの暑さに、奥にひっこんだ役人たちはダレ、半分寝ぼけたような風体であったからだ。
小夜は、運ぶ下男たちに最初に給金をはずむ、と告げ、士気を上げていたし、時折、酒も買ってやると言ったので、やる気は落ちなかった。
「どこまで行くんですか」
日陰で休憩と水を取っていた旭だが、汗が流れ落ちるのが止まらない。それほど暑かったのである。ひよわい大奥女中の小夜は、もっと疲れているはずだ。
「今日は新宿まで何とか行けたらいいが……」
「新宿!」
まだ、本所を出て両国にまでしか来ていないのだ。あと十キロメートル以上はあった。この炎天下で、小夜の体力では絶対に無理である。
「無茶です、男の私でもこの炎天下はキツイ」
「確かに……」
「舟を使いませんか」
「川を遡るのは、時間がかかる……」
小夜は顔をしかめた。
「でも、江戸市中の水路はそんなに流れがありません。えーと……浅草御門から飯田橋までいけば、あとは川の流れに沿っていけます。あちらのほうがラクです」
旭に言われたことを確認するために、小夜は荷物の中から地図を出した。
「確かに。そなたに言われるまで、私は下から上がる経路しか考えていなかった」
「月島さま、おひとりで計画を立てられるのはいいのですが……私にも少しは相談ください」
でないと、体力を考慮しないではないか、と続けたかった、が止めた。小夜は家賢に報告されて止められることを何よりも嫌がっているからだ。
「もう、上様に報告はできません。月島さまに着き従って旅に出てしまうのですから。ですから、これからの計画を話してください」
そう。それが何よりも大事なことだった。江川太郎左衛門の屋敷から盗み出したものを使っていったい何をしようというのか。
数秒考えていた風だったが小夜はやがて納得した。
「そうじゃな。旭の言うとおりだ」
そして計画を話し始めた。