意思が運命を変える
なにかヘンだ。
あかりがそう気付いたのは、水無月の二十日すぎ。つまり、信州高遠に移送される、と知った夕方のことだった。
夕食に出されたものを食べてから、気持ちが悪く軽い腹痛もする。
これは毒なのか?
はっきりとは、まだ分からないが、その日から食べるものには細心の注意を払うことにした。できるなら食べないでもよいが、この暑さだ。全く断食をしてしまうのも危険だ。
高遠に移されると聞いて、最初に感じたのは『一応、助かった』という安堵感だった。配所へと移送、ということは、そういうことである。幕府の咎人を高遠藩が勝手に処分するわけにはいかないからだ。どうなって遠島という沙汰が下ったのかは分からないがホッしたのは事実である。
だが、今日の食事に毒が入っていた、となれば安心など遠い話である。なにか……分からない陰謀が始まったと考えてよかった。
汁もの……は、手をつけないでおこう。一番毒物を入れやすい。だが、飲んでいない、と分かれば他のものに入れるだろう。なら、汁ものはどこかへ捨て飲んだとみせかけねばならない。さて、どうやろうの。小さな戦争のはじまりだった。
「はあ……」
あかりは思わずため息をついた。もう何度もついてきたが、今回はまた別のため息だった。
毒物の勉強をしてきた自分が毒殺されようとしているなど皮肉以外の何ものでもなかった。そのうえ、この後に及んでもまだ生き残ろうとしている自分がいたからだ。
「最後の最後まであきらめてはならぬ」
そう言ったのは親方だった。
それは時間内に鍵を開ける練習をしていたとき。どうしても開けられなくてあきらめようとした時に言われたのだった。
「鍵はよい。別にあきらめればすむことだ。しかし、鍵のかかった土蔵の中に大切な方がいて爆薬がしかけてあったらそなた何とする。じりじりと導火線の火が減っている。鍵を開けねばその人は爆発とともに吹っ飛んでしまうのだ。時間はもちろんない。そんな状況であったらそなた何とする」
「壁をぶち抜きます」
「ほぉ、それもひとつの方法だ。じゃが、壁は頑丈でちょっとやそっとでは抜けぬとならどうする」
「屋根にあがって穴をあけます」
「それでは、そなたが入れても大切な人を外へ出すことは間に合わぬ」
あかりはじっと目をとじて考えた。
「もういちど……よく考えます。穴の形状と使っている鍵あけの道具が適当であるか」
「して?」
「合っていたなら、何も考えずにもういちど鍵を開けてみます」
「では、そうせよ」
あかりは手元にあった鍵の鍵穴をさぐったあと道具を変更した。新しい道具で探ってみるとピキンと鍵は外れた。
「そうじゃ。よく出来たな。あかり」
炎才は嬉しそうにあかりの頭をなぜてくれた。
「しのびはな、お役目のためには簡単に命を捨てよ、と教えられているかもしれぬが、それは嘘じゃ。本当に大事なことは最後まで生きることをあきらめぬことにある。それが本当のお役目遂行だからの。死んではお役目は遂行できぬ」
「お役目を遂行するのに、どうしても死ぬ必要がある場合はないのですか」
「ないの」
炎才はきっぱりと言った。
「どうしても生きられぬ、という場合はあるかもしれぬ。しかし、それは今回のように最後の最後まであきらめねば、ほとんどない、と言ってよい。どこかに〝もう、いいか〟という気持ちがある場合のみ、死ぬのだ。本当に大事なのは意思なのだよ、あかり」
よく分からなくてあかりはぽかん、と口を開けた。あの時はまだ十二歳くらいだった。
「意思が運命を変えるのだ。それをしっかり覚えておくのだぞ」
「はい」
あの時は、よく分からないまま返事をしたけど、今になってその言葉の重みを感じる。
親方はわたしに生きる意思の大切さ、運命を切り開く手がかりをくれたのだ。そして、あの温かい手でわたしのことをちゃんと愛してくれた。
母上はわたしには父者は死んだと言ったけど、今にして思えばずっと親方のことを想っていたのが分かる。時折、たずねてきてくれた親方と過している時間は、本当に嬉しそうだった。小さな頃は、わたしは親方の膝に座っていた。
外ではだめだぞ、って言っておきながらわたしを放さなかった親方。それを見ていた母上の幸せそうな顔。わたしは両親からちゃんと愛されていたんだ。それが今になってよく分かる。
――だから――
わたしは死ぬわけにはいかない。父や母のためにも。親方の教えを守るためにも。そして月島さまとの約束を果たすためにも。
どうにかして逃げ出す手はずを考えねば。ここで逃げるか、高遠に行く道にするか、それとも高遠で手薄になった時を狙うか。
もう、あかりはふっきれていた。
横井家の断絶のことも、家賢のことも、どうでもよかった。いまいましい父権社会の制度にしばられたこの世界から、心は自由になろうとしていたからだ。
わたしが運命に見捨てられていない、とすれば、何か合図があるハズだ。『いまだ!』という合図が。逃げるべき兆候というもの。それを見逃さないようにしなくては。