私が私の現実をつくる
「今は信州高遠・駿河守清枚の館に、お預けの身となっておる。死罪だけは何とか免じて、高遠に遠島となった」
「まさか、高遠に行くまで晒されるのでは……」
小夜は真っ青になった。
「いいや、それはない。ただ……高遠に着くまでに毒殺されるやもしれぬ。側室だった女人を罪人とするのは、将軍家の体面が悪いのでな」
「それで、上様はいいのですか! あんなにも可愛がっておられたではありませぬか!」
小夜は家賢に詰め寄った。
「だから、こそじゃ! 靜はわしを裏切ったのだ」
「その証拠の文とやらを信じておられるのですか。あやしすぎます、証拠が明確すぎます」
分かっていた。ふたりとも。あかりが大逆賊などでないことは。もう証拠がどうというレベルでないことも。ただ、政治的な落とし穴に、あかりは落ちてしまったのだ。
――どうすることもできない――
しょせん、世の中とはこんなものなのだ。
…………
…………
いや。
違う。
ぜんぜん違う!
世の中など、ない! どうすることも出来ないなど、嘘だ! 未来は決まっていないのである。
今の小夜は違った。
何かがすっかり壊れていた。それは、今までの価値観。理論的だと思っていた、自分の思いこみ。
すべてを分かったふりをして〝あきらめる〟生き方は
嫌だ!
小夜はすっと後ろに下がると、深々と頭を下げた。
「これにて失礼いたします」
口を開けたまま家賢は、立ち上がる小夜を見ていた。
「どこへ行く、月島!」
「退散いたします」
襖を開けて、廊下に足を出した途端、家賢が叫んだ。
「誰か、その者を捕らえよ!」
わらわらと小姓たちが三人、飛び出してきた。行く手をさえぎられる。
「行くな! 月島」
「靜山を、助けねばなりません」
振り返った瞳には炎があった。凄みさえ感じられる。
「将軍の余とて、どうにも出来なかったものを、そなたがどう出来る、というのじゃ」
「考えます」
そうだ。今まで自分には何の力もない、と思っていた。肩書きや権威がなければただのちっぽけな女。すぐに嵐の海に投げ出されてしまう、と。
しかし、今、悟った。力は自分にある、と。
幕府になど、そして、自分の外になど力はなかったのだ。
現に家賢はたった一人の女さえ救えない。きっと陥れられたのが自分であっても救わないだろう。
家賢は将軍なのに。多くの人より何か出来るハズなのだ。それがたとえ理不尽であっても、心からの願いなら自分を中心に考えて動くべきなのだ。
わたしは違う。わたしの意志がある。わたしのやりたいようやれるよう、考えるのだ。
「どきなさい」
小夜から青白いオーラが立ち上るのが、見えたような気がした。その迫力に小姓たちは、一瞬たじろいだ。
光のように小姓の間を抜けると、小夜はさっさと歩いて行ってしまった。
「お、お待ちなされ……」
「よい」
家賢が近くにまできて止めた。
「そなた、あの者を江川太郎左衛門邸まで、丁重にお送りするのだ。くれぐれも粗相のないようにな」
「はっ」
小姓のひとりが小夜を追いかけていくのを見ながら、家賢は少し胸が高鳴るのを感じていた。なにか、小夜がやってくれそうな頼もしさを感じたのだ。
『そなたは何をどうやるというのだ』
この袋小路だらけの現実に。
そう思いながらも家賢は小夜の姿が消えた先を見たままずっと立ち尽くしていた。
江戸城に参代した次の日、本所にある江川太郎左衛門邸から小夜の姿は消えた。
〝お世話になりました〟という内容の他に、自分の使っていた南蛮の資料や辞書を、届ける手配をしてみる、という書置きが一通あった。
江川は雲庵や妙安寺に何度か足を運んでみたが、小夜の行方は知れなかった。