時代の境
「帰ってまいれ、余のもとに」
「上様……」
「そなたを失って以来、余はそなたが本物で妻であったことがハッキリわかったのじゃ。徳川開幕依頼、妻は夫に従い、内助の功で助け、良妻賢母であること、としてきた。したがそれは正しいのか?
だいたい将軍家はその教えにさえ則っておらぬ。御台所は、内助の功どころか、公家の姫をもらうので政治に口を出させぬよう大奥にひっこめたままだ」
「では上様は何をもってして、わたくしを妻だと言われるのでしょうか」
「本気で悩んでくれるところ……ではないのか。同じ立場にたって答えを出そうとするところではないのか。武将はおなごに政治の話をせずとも、側用人がおる。しかし……太平の世が続いた今となっては、側用人でさえ利権が絡んでくるのじゃ」
「側用人の代わりを妻がせねばならぬと、言われるのですか」
「違う、もっと私的なことじゃ」
「私的? 上様に私的なことなどありませぬ」
あまりにきっぱりという小夜に家賢は面食らった。
「ふふ、なんとはっきりと言う。だから、そなたは最高の妻なのだ。類稀なる頭脳と、余を恐れず、敬わず、本当に余のことを考え、意見してくれる」
小夜には黙って聞くしかなかった。
「そなたに女の道を求めてはおらぬ。妻として一緒にいて欲しい、と言っておるのだ」
「わたくしがご一緒にいて、あれこれ言えば何か変わるのでしょうか。幕府の体制や、上様のご判断が、変わるのでしょうか」
小夜はよく分からなくなってきた。ここに来るまでは大奥に帰らねば、と思っていた。だが、このまま家賢のそばにいても何も意味がないように思えてきた。
「なぜ、そのように小難しく考えるのだ。余でさえも幕府の体制をなかなか変えられぬ、というのに。そなたは余のそばにいて、色々な相談にのってくれればよいのだ」
小夜はその言葉を聞いて、深い溝が開いていくのを感じた。家賢はただ、己のカウンセラーが欲しかっただけなのだ。それも都合のいい意見を言う。
小夜は少し意地の悪い気分になった。きっと怒るであろう、ことを言ってみたくなった。
「異国が攻め込んできて、もしも幕府が無くなったら上様はどうされます?」
家賢はきょとん、とした。だが、少し気まずそうに目を動かすと答えた。
「もし、徳川幕府が負けたら、それは切腹して果てるまでだ」
「日本の民は、どうなりまする? 天子さまも見捨てて、自害ですか」
「もちろん負ける前に、死ぬまで戦うのだ。その為に、そなたも江川たちも新しい武器を開発しているのであろう。異国に簡単にやられる我らではない」
「言うことが矛盾しておられます。〝負ける前に死ぬまで戦う〟というのは、負けると心の中で思っておられる、ということです」
家賢は怒りで顔が真っ赤になった。このように将軍の心の中にずけずけと入りこんで屁理屈のような口問答をする女などいなかったからだ。
だが、家賢はここで一呼吸おいた。失礼を働かれるのは御前会議でも、しょっちゅうだったのだ。
「そなたと、無益な議論をする気はない。いったい、何が言いたいのだ」
「徳川幕府を、解体、できませぬか」
意味が……分からなかった。家賢は、はじめて和語を聞いたかのように、不思議な顔をした。
「時代の境では、必ず旧体制は崩れます。そうしないと新しい世の中が来ないからです」
「今が時代の境だというのか。どうしてそれが分かる」
「二百数十年、続いてきた徳川幕府の考え、体制では、現状に全く対処が出来ていないからです。時代が大きく揺れているのが上様にもお分かりなはず」
確かに。家賢にもそれは分かっていた。
「しかし、幕府を解体して何とする? 社会は大混乱じゃ。誰が、次の体制の指揮をとっていく、というのか」
「それは自然とできましょう。最初は力の強いものが出張ってきますが、その後は全く予測できない者が出てきましょう」
「予測できない、とは何じゃ」
「だから、予測できないので分かりません。今のわたくしたちの想像では限界がありますゆえ」
はぁぁ。家賢はため息をついた。分からないけど来る、など、全く、理屈が通らない。そんなことでは政はやっていけない。どうした、月島らしくもない。
「そなたの言うことは無茶苦茶だ。話にならん」
だが、月島のこの予測は、明治政府という思いもよらなかった議会政治体制となって、後に結実するのである。
「とにかく大奥に帰れ。そなたは火事の病気で宿下がりをしておったのじゃ。分かるな?」
哀願するような家賢の目だった。
月島は心の中でため息をついた。やはり、自分の意見は届かない。旧体制にいる家賢や老中に何を言っても無駄なことが分かっていたが。
何かがざわつく。
それは、やがて内外からくる大きなエネルギー。
小夜には時代の動きがひしひしと感じられた。
――そうだ、靜山はどうなったのか――
「上様、靜山どのはお元気でおられましょうか。お部屋殿になられたとか」
その言葉を聞いたとたん、家賢は凍りつくような顔をした。
「靜のことは口にするでない」
「どういうことにござりまするか」
不穏なものを感じた小夜は、引き下がらなかった。
「上様!」
あまりに激しい小夜の表情だった。苦々しい顔をしていた家賢は、やがてあきらめたように口を開いた。
「知らぬほうがよい。……だが、大奥に帰ったら嫌でも耳にするの」
――それならば余から話そう――
そして、家賢は顛末を話し始めた。