冷たい土と愛しい人
思ったより遅くなってしまった。
時間はまだ宵の口であったが冬の日の暮れは早い。寒風吹きすさぶ神田の町を小夜と江川は急ぎ足で歩いた。雲庵の門前まで来ると江川は別れを言い去った。
「小夜です、遅くなってすみません」
戸を何度か叩き声を張り上げてみたが、中から応答はない。
『寝ているのかしら』
開かないと思いつつ戸を引くとするりと開いた。
『?!』
小夜は違和感を感じた。
ひんやりとした室内は奥の部屋まで真っ暗である。
「山吹ー帰ったぞ。どこにおる?」
中に入るのがためらわれたため声を張り上げた。返事は無くしん、としたままだ。意を決した小夜は持っていた提灯をかかげ、ゆっくりと奥の部屋に進んだ。
玄関のすぐ横の部屋は患者の待合である。その奥が診察所。今は龍才が寝ているはず。だが龍才の姿はなく布団が大きく乱れたまま、部屋には多くの足跡が散乱していた。
『これは…』
小夜は真っ青になった。
大きく開け放たれたふすま、その向こう部屋に小夜は信じられないものを見た。
それは杭で心臓をひと突きにされている山吹の姿であった。
「ひっ」
畳に達するまでつき刺された杭につながれた山吹は呪詛のオブジェのように見えた。小夜がかろうじて提灯を持つ手を保つことが出来たのは、壁に紙が貼り付けられているのを見つけたからだった。
密教の札のような文字だった。小夜には全く読めなかったが不気味でたまらない。
恐ろしくなって家から飛び出た。
人どおりがない冬の町を、草履も履かずに小夜は駆けた。
後ろから呪いの黒い影が追ってくるような気がして必死に逃げたのである。
「あっ!」
小石に足をとられて上半身からどっと倒れた。
倒れたまま後ろを振り返ったが、何も追いかけてなどこない。
ほぅと息を吐くと恐ろしさと悲しさがこみあげてきた。
『いったい何があったのじゃ、山吹』
涙があふれて止まらなかった。
『どうしてこんな事になる……大奥にいたらこんな風になることなどありえなかったものを。どうしてわたくしは出てきてしまったのか』
ボロ布のように倒れている自分を顧みて後悔が全身を被った。今や世界でたった一人になってしまった。姉妹のようだった墨越も死に、たった一人の味方だった山吹も無残に殺された。
『やはり、神も仏もおらぬ。もうどうしてよいか分からぬ』
しんしんと冷える土は、小夜の体温を容赦なく奪おうとしていた。
そのまま気が遠くなりそうだった。
『このまま眠れば死んでしまう……起きなければ』
そう思っているのに精も根も尽き果て急速に意識が無くなろうとしていた。夢の中に靜山が出てきて、ふわふわと笑いながら暖かい葛湯を差し出してくれた。
『ああ靜山……体が温まるぞよ』
豪華な部屋には火鉢が焚かれている。
靜山は優しく笑っている。
――いい気持ちじゃ――
「何かおりまする」
ひとりの女が声を上げた。
通りを曲がったところで黒い影が倒れているのを見つけたのだ。
「行き倒れでございましょう。なるべく離れて通りましょう」
道案内をする中年男が提灯を持っている。近づくにつれ、ふたりは警戒をしながらも倒れている影をじっと見た。
「女性のようです。少し声をかけてみましょう」
女が男に提案した。
「いけません。物取りかもしれませぬ」
「このように寒い中、倒れているだけでも命取りです」
命をかけて物取りをするなど考えられなかった。女の決意を知って男はとまどいながらも倒れている影に近づいた。
「これ、もし」
男は影の肩をゆすった。
「ん……」
何とか生きているようだ。
「このような所に倒れてどうなされた」
提灯の明かりをその人物に当てた。
その瞬間、女は息を呑んだ。
「ああ」
弾かれたように倒れている小夜の肩を抱き上げた。
「月島さま」
青く閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
小夜は不承な顔をして女を見上げた。
「靜山?」
「はい、靜山です」
「これは夢か……わたくしは死んだのか?」
「いいえ、死んでなどおりませぬ」
あかりは泣きながら小夜を抱きしめた。
「やっと……やっと会えました」
あかりは小夜の体をしっかりと抱いた。
『もう離しませぬ』
強くきつく抱きしめたその体は
柔らかく細く、そして冷たく悲しかった。