大奥にはもどらない
小夜はじっと二冊の技術書を見比べてみた。
ひとつはオランダ語で書かれた鉄の精製方法、一方はイギリスのライフル砲の取扱説明書であった。
幕府の最重要機密である。
他言しないこと、を約束に小夜にその書類は公開された。
「どうであろう?」
何も発しない小夜に江川はややじれていた。
「よく分かりませぬ。ライフル砲は後ろから砲弾を入れて撃つ方法が書かれておりますが、これはあくまで撃つ方法です。この書だけでライフル砲の作り方は分かりませぬ」
「うーん、やはりな」
この時代、日本では前から砲弾を入れて打つ大砲しかなかった。後ろから入れて使うライフル砲は、次の弾を込める時間が短縮できたのだ。
「蘭語の書は鉄の精製方法がかなり詳しく載っているようですので、こちらを参考にまず炉を作りその鉄で簡単な大筒を作ってみてはいかがでしょう」
「そちらはもうだいぶ進んでおる」
小夜は驚いた。既に鉄が精製できる炉があろうとは。
「自宅の庭に小型の炉を作って鉄を熱し鋳型に流しいれるところまではしたのだが、実際に試用しておらんので耐久性はまだ不明なのだ」
「なんと既に実験段階であるとは」
鍋島藩の斉正から以前大筒の話を聞いた時はその威力に無力感を感じていたが、江川の精力的な行動を知って少し希望が持てた気がした。
「江川さま、わたくしで出来ることがありましたら、どうぞお使いください。この国が少しでも強くなれるようお手伝いしたいのです」
江川は深くうなずいた。
「小夜どのには、ライフル砲の説明書をまず訳していただきたい。その後、構造を我々と一緒に解明してくだされ」
「分かりました。けど、辞典が今手元にないのです。見たところ専門用語がかなり入っておりますので……わたくしには分からない言葉が沢山あります」
申し訳なさそうに小夜は目を伏せた。それを聞いて江川もしばらく考え込んでいたが、不意に何かアテがあるかのような表情になった。
「では次の機会に拙者がお持ちしよう。蘭語訳で期限つきだがよろしいかな」
「もちろんです、よろしくお願いします」
高まる気持ちで小夜は頭を下げた。
――そうだ、このままやられる日本ではない―――
その為に自分に出来ることがあるかもしれないなんて、わたくしは幸運だ。大奥にいて古いしきたりに振り回されるのは今や本意ではない。
この時、小夜は決めたのである。
もう、大奥へは帰らない、と。