藍瞳
墨越は立ち上がると、棚にあった蒔絵で飾られた文箱を二つ取り、靜山の前に置いた。
「これは?」
「ご覧になれば分かると思います。どうぞ」
差し出すと墨越は部屋を出ていってしまった。
文箱の中。
ひとつの箱には大奥の女性たちからの、月島の対する恋文とおぼしき書が何部も入っていた。
そしてもうひとつの箱には、将軍・家賢から月島への恋文。
三十路を二年も過ぎた月島は、もう将軍の相手をすることは出来ない。
それでも、想いを押さえることは出来なかったのだろう。
『変人だから、ご寵愛が無くなったなど、全くの嘘ではないか』
家賢の文を読んでいると、体は手にはいっても心が近づけない辛さはない、そして、今やその体さえも遠くから見るばかり、と言ったことが書きつらねてあった。
将軍といえど、大奥の女であってさえ手に入らないとは…
「そうしておるとまさに天女のようじゃな」
月島の声に、文を読んでいた靜山はぎょっとして飛び上がった。
足音さえ気づかなかった。
「つ、月島さま!」
「……天女も驚くのか」
月島は目を丸くさせた。
「も、申し訳ござりませぬ。お許しくださいませ、これは、その」
「ああ」
文箱の文を一瞥した月島は、何でもないかのように口をとがらせた。
「墨越に捨てておくように言い渡しておるのに……あの者は取っておくのだ」
「し、しかし、これは上様からの」
「…………」
慌てふためく靜山を、月島はまじまじと見つめた。
その瞬間、靜山は、
深い藍色の瞳に、吸い込まれそうになり
息をするのを忘れた。
急に胸が苦しくなった。
何か泣きたいような、甘酸っぱいような、そんな感覚が走った。
しばらく二人は見つめあっていたが、そのままでは何かおかしくなりそうだった。
強い意志を取り戻したのは月島だった。
くるりと背をむけた。
「そこを片付けておきゃれ」
「はい……」
文が散らばったままの部屋で、胸に手をあてたまま靜山はひとりたたずむのだった。
大奥には年寄というキャリア組とは別に、お方様と呼ばれる寵妃組もある。
つまり、将軍の子どもを産んだ女たちだ。
将軍の男子を産むと「お部屋さま」、女子を産むと「お腹さま」と呼ばれ、生んだ男子が次期将軍ともなれば、おふくろさま・生母さま、とも呼ばれ絶大な権力を持つことができた。
が、
通常のお手つきくらいでは、大したことなく部屋ももらえない。
子供を産んで初めて部屋をもらえるのである。
ここに、お初の方という女人がいた。
お初の方は、家賢の母方の娘で、寵愛を受けたのだが、生んだ子供はすぐに死んでしまい、そんなうちにお褥辞退となった。つまり、三十路をすぎたので伽は引退。
そんなお初の方は、強引で激しい性格をもてあましていた。
前々から 同世代の月島にライバル心を持っていたのだが、いつの頃からかなぜか、よからぬ情欲を抱くようになった。
しかし何度 文を送っても、無しのつぶての日々にギリギリとしていた。
「どうにかして月島をこちらへ来させられないだろうか」
昼間から酒を飲み続ける主人に、手を焼く部屋子・長柄は、ややうんざりしながらテキトウに答えた。
「何かあちらの手落ちでも見つけて、それを盾に、こちらの言う事をきかせるというのはどうでしょうか」
「月島に限って手落ちなどありはせん……いや、しかし失敗するようにしむける、というのはどうじゃ?」
急に目が輝きだした主人を見て、長柄は『しまった』と感じた。
お初の方がこういった悪い顔をしだすと、ろくなことを言い出しかねないのを知っていたからだ。
「し、しかし、お方さま。月島さまが失敗されたのが、万一露見して大奥をお下がりにでもなったら……」
「それもそうじゃ。では、大奥を下がるほどの失敗でない失敗を考えるのじゃ」
「…………」
不可能な注文である。
「お方さまのご意向に沿うか分かりませぬが……今度大奥に上がりました月島さま付きの靜山をまず呼び寄せてはいかがでしょうか?
あちらは中臈でござりますし、お方さまに挨拶に来ることに、何の違和感もございません」
「おおお、噂の靜山か。美貌の天人にいちど会いたいと思っておったのじゃ」
「お方さま、靜山はいずれ上様のお手つきとなられる身かと」
「分かっておる。わたくしの目的はあくまで月島。鯛を釣るには何とやら、じゃ。
早速、靜山を呼び出すのじゃ」