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砲術師範の男

 年も押し迫ったある日のこと。


 妙安寺の子供たちに剣術を教えている中年の男に小夜は目をやった。

「あの方は?」


 高位の武士だが、目が大きく知性的でそれでいて人なつこい雰囲気があった。


幕府砲術師範ばくふほうじゅつしはんの江川太郎左衛門さまです」

 春心しゅんしんが穏やかに答えた。


庵主あんじゅさまのご親戚なので時折、ああやって男の子たちに剣術を教えに来てくださるのです。お忙しい身の上なのに、気晴らしだ、とおっしゃってくださって」


「幕府の砲術師範……」

 小夜は西洋流の大筒の話を思い出した。


 老中の阿部や鍋島藩の斉正が言っていた異国船対策のことだろうか。

 春心には砲術が何か分かっていないらしかった。


「江川さまは緒方洪庵おがたこうあん先生の門下生でもあられるので、医術の心得えもあり、わたくしどももよく助けていただいております」


 剣術の練習が終わると江川は春心の出すお茶を飲むため部屋に入ってきた。


「小夜さんには子供たちに学問を教えてもらっております」

 小夜は近所に住む出戻り女であるという設定になっているので、そのまま江川に紹介された。


「子供たちに学術を教えるのはとても大切な事です。失礼ですが、あなたはどこで学術を?」

 単刀直入に聞く江川に小夜は少し面食らった。


「わたくしは一通りの読み書きは習いましたが、女ですから特定の師について習ったことはございません」


「小夜さんは手習いの本をちょっとお読みになっただけで、すっかり理解されるのです。それを子供たちには上手に教えてくださるので大変助かっております」


 春心があわててフォローした。

「それはすごいですな」


「ええ、本当に。漢語もすらすらとお読みになるし、算術もお得意なのですよ」

「江川さまは緒方洪庵先生に西洋医術をお習いになったとか」


「春心さまはどこまでわたしの事をお話しになったのやら」

 江川は苦笑しながらお茶をすすった。


「緒方先生は信念を持った方でしてね、全国から新しい学問を修めたい熱い若者が沢山集まってまいりました。そこでは毎月試験があって、それに三ヶ月連続で主席を取らないと上級に上がれないのです。


しかし肝心の蘭和辞典は一冊しかない。新参者は先輩が使い終わる夜半にならないと貸してもらえなかったので大変でした」


「ハルマなら、長崎から取り寄せられなかったのですか?」

 思わず小夜は口を滑らせた。


 その頃、蘭和辞典はハルマと呼ばれていた。江川は一瞬驚いた顔をした。


「ハルマとは、よくご存知ですね。しかしハルマは入手するのが非常に困難なのです。高価ですし。ハルマをご存知なら、よくお分かりだと思いますが」


 江川はにっこりと笑った。今まで安易に手に入れていた辞書のことを考えると、小夜は少し後ろめたい気持ちになった。その貴重な辞書を火事で焼いてしまったことも。


「しかし、これからはエゲレス語です」

 江川の声に力がこもった。


「エゲレス語?」


「ええ。砲術や海術にはエゲレス語が多く使われています。きっとエゲレスが技術の先端を走っておるからでしょうな。日本もいずれは追い越すため、もっと研究せねばなりません」


「江川さまは、エゲレス語と和語の辞典をお持ちなのですか」


 まだ直接和訳した辞書を見たことがなかった小夜はたずねた。


「いいえ。英蘭・蘭英辞書が洋学所に一冊あるだけです。いちいちエゲレス語から蘭語に、それをまた和語になおすのは大変なので、自分なりにエゲレス語からの和訳を作ってみたりしておりますが……しかし、時間がかかります」


 その言葉を聞いて小夜は小さくため息をついた。

 自分も読む本の範囲であったが英和帖を作っていたからである。それもすっかり焼けてしまった。


「小夜どのは語学に興味があるのですかな」


「いいえ。ただ、少しエゲレス語の本を読んだことがあるだけです。その資料をすっかり無くしてしまったのが惜しくて……」


「なんですと?」

 今度は本心から江川は驚いた声を上げた。


 あわてて湯のみを茶托に返すと、小夜に向き直った。


「ど、どちらでエゲレス語を勉強されたのです?」

「え?」

「どんな本を読んだのですか」

 矢継ぎ早に江川が小夜に質問した。


「わ、わたくしが読んだのは、エゲレス語の詩や心学のような本です」

「それはどういった内容です? 蘭語から訳されたのですか?」


「はい。内容は……色々です。詩は心を打つ叙情的なものや風刺もありましたし、心学は小難しく人間のあり方について書いてありました。


心学は単語が難解で訳がなかなか進みませんでしたけど、詩のほうは同じ単語が繰り返して出てきますので理解しやすかったです。


分かった単語は江川さまのように自分なりに和訳をして帳面に書き記しておりましたが……もう、手元にはありません」


「なんと……」

 江川はあっけに取られながら内容に興奮したようであった。


「あなたは……何者ですか、どこでエゲレス語を習ったのですか」

「あ……」


 通常の意識状態でない小夜は、口にしてはまずい事がこの時はコントロールできなかった。何も言えず気まずそうに下を向いた。


「え、江川さま、小夜さんは雲庵というお医者さまに縁ある御婦人です。多少、異国の知識があったとて不思議ではございますまい」


 春心が小夜に助け舟を出した。


「いいえ、町医者の範囲を超えておられますよ。小夜どのは」


 江川はじっと小夜を見つめた。


「わたくしは……詳しくは言えませんが、お金に困らない生活をしておりました。そこで、ちょっとした手習いとして外国の知識を仕入れただけです。おなごのわたくしに学問を修める術はありません」


 そう言われると、実際にその通りなのでそれ以上は追求できなかった。当時の女性が一流の学問を身につけるすべは無いに等しかったのである。


「あまり追求すると、もう妙安寺に来ていただけなくなりますな。いや失礼。……実際エゲレス語には相当困っておるもんで、思わず力が入り申した」


 頭を掻きながら少し恐縮した様子に江川の人の良さがにじみ出た。幕府、高位の役人にはあらざる態度である。


 けれども江川は感じていた。

 小夜の非凡な才能と、利用価値と危うさを。


――まだ誰も習熟した者はいないエゲレス語を多少なりとも知っているこの女人、

何者であるか、果たして使えるのか――


 それが一番知りたいことであった。



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