心の平安
第五章
茶店の椅子に腰を下ろして小夜はひとりの男の子を見ていた。
まだ、五、六歳であろうか。
すりきれた木綿のかすりを着て、他の子供たちが出店のおもちゃを買ってもらうのをじっと見つめていた。
今日は縁日である。小春日和に、楽しげな音曲の音色と、物売りの声、ガラガラと天井鈴を鳴らす音……
『陽乃輔はどうしているのだろう』
小夜は弟のことを思った。弟の陽乃輔は気も弱く、頭も少し弱かったので、いつもぼぅっとしていた。そんな弟に父はいつも辛くあたった。父の期待にこたえられない陽乃輔は、どんどんと自信をなくしていった。
小夜は弟にこれ以上プレッシャーを与えないため、自分がしっかりして家を盛りたてようと考えていた。それは自然にそうなっていた。だから大奥に入ったのだ。それと、もうひとつ理由があったのだが。
火事の後、実家には小夜は焼け死んだ、と知らされていた。小夜からの仕送りもなくなった今、頼りない母と弟はどうなったのか。
だが、今の小夜は、実家の生活にまで考えが回らなかった。ただ、記憶の奥にある陽乃輔が、目の前の男の子と重なっただけである。
「あ、泥棒!」
その声に我にかえった。
おもちゃをじっと見ていた男の子はおもちゃ屋から品物を奪うと走って逃げだした。すぐに大人に追いつかれると、万引きした商品を取り上げられた。失敗である。
「なんてことしやがんだ、このガキ!」
店主は子供の頭をゲンコツで叩いた。
「うわーん」
大声で子供は泣き出した。
「泣いたって許されやしねえ。やい、てめえの親はどこにいるっ」
「うわーん」
「言わねえんなら、お奉行所につきだすぞっ! 泥棒は打ち首だからな!」
真っ青になった子供は、しゃくりあげながら答えた。
「お、おいら親はいねえ……あ、あんじゅさましかいねえ」
「あんじゅさま?」
「みょ、妙安寺の庵主さま……」
そう言うと庵主さまが恋しくなったのか、余計に泣きだした。どうやら親無し子のようである。
妙安寺は、孤児院のようなことをしている尼寺だった。
「仕方ねえなあ……妙安寺のガキかい」
親のいない不憫さ、泥棒はいけないことだというしつけ、どっちを優先させるか店主はとまどっているようだった。
「この子のことは、お任せくださいませんか」
小夜は思わず立ちあがっていた。
「わたくしが、その妙安寺まで連れて行きます。もちろん、泥棒したことも庵主さまにお伝えしてしかってもらいますわ」
「あ、あなたは……」
引き込まれるような雰囲気に店主はぼっとなった。あまりに場違いな美女である。本当はひとりで出歩くと山吹にしかられるのだが、今日は雲庵が忙しかったので、近所を歩くことだけは許してもらえたのである。
「通りすがりの者です。ぼうや、ちょっとそこで待ってらっしゃい」
小夜の優しそうな声と綺麗な顔に安心して、男の子は言われたとおりの場所に行き立ち止まった。
こっそり男の子の欲しがっていた商品を店主から購入すると小夜は、男の子の手をとり、わらべ歌を歌いながら歩きだした。
ぶらぶら、ぶらぶら……
リズムよく振られる手の感覚は楽しく、時折、小さな手できゅっと握られる感覚に胸が熱くなった。
妙安寺は、神社からすぐにあった。子どもの足でも十分歩ける距離。
中から出てきたのは、初老の尼僧と、小夜と同じくらい年の尼僧のふたりだった。
「本当に申し訳ありません。三太は普段とてもいい子なのですが……このような事のないよう、よく言ってきかせます」
初老の尼僧は妙安、若いほうの尼僧は春心といった。
奥では十二、三人ほどの孤児たちが手習いをしていた。
「こちらは三太が欲しがっていたコマですが……ひとりだけに渡さないほうがいいでしょうか」
小夜は遠慮がちに尋ねた。
「まあ、買っていただいたのですか」
「あまりにもじっと見ていたので不憫で。最初は、もう泥棒をしない、と言えば、これをあげるつもりだったのですけど。他の子たちのぶんが……」
「ありがとうございます。もし、いただけるのならコマは皆で使うことにします」
妙安はにっこりと笑って、コマを小夜から受け取った。
妙安は子供たちに小夜からコマをもらったのでお礼を言うように促した。小さな子供たちは歓声をあげて小夜の周りに近づいてきた。三太は小夜の臀部にまとわりつく。
「あのね、おばちゃん、おいら字書けるよ」
「ほんと?」
「うん。あのね、見て見て」
三太は手習いをしている年長の子供たちの部屋へ行くと、墨をとって字を書き出した。
「あたしのも見て!」
「あたしのも」
そう言われた小夜は、すっかり妙安寺で時間を過ごしてしまった。