雲庵
江戸城本丸、大奥から出火した火が完全に鎮火したのは三日たってからのことだった。
幸い城下に燃え広がることもなく本丸を四分の三、焼いた程度で食い止められた。
将軍は居城を西ノ丸に移し、本丸にいた女たちは西の丸とニの丸にある大奥に分かれて過ごすこととなった。
が
城では依然、混乱状態が続いていた。
反面。
郊外に逃げていた町人たちは火が治まると、あっと言う間に戻ってきて、すぐに元の生活を始めた。
江戸っ子にとって火事は大惨事であったが頻回に起こるものでもあったので、いちいち気にしてはいられなかった。
それよりもお城が、今後どう再建築されるかというほうが気になった。税が課せられるのでは、普請に人手がかかるので仕事口が増えるのでは、材木問屋が儲かるのでは、などなど、噂があちこちで飛び交った。
そんな師走の半ば。
神田にある診療所、雲庵に笠をかぶった二人ずれの女性がやってきた。
日も暮れた、夕七つ半(午後五時頃)のことだった。
「雲才さま、山吹でございます」
真っ暗になった土間入り口から声をかけた。
「なに山吹とな」
玄関の奥から柔和な顔をした初老の男が顔出した。
町医者らしく剃髪せず、中肉小背、深緑の綿入れの上下を着ている。
「おまえ、無事であったか。今までどこへ行っておったのだ……ん? そちらの方は?」
山吹の後ろに隠れるようにしていた女性は、ゆっくりと笠をはずした。
夜目に白い顔が現れた。
「小夜、と申します」
落ち着いた低い声。線の細い美女に似つかわしくないその声は、女性の知的な部分が現れていた。
「雲才です。この辺りで医者をやっております。まま、そこでは寒い。お上がりください」
薬草の匂いが家中に漂っていた。
ふたりは奥に通されると、座敷に腰を下ろした。
「薬があるのであまり暖を入れておらんのです。寒くて申し訳ありません」
急いで炬燵に火をいれ、火鉢を近くに持ってくる。
「こちらはすぐに開業出来たのですか」
山吹は小夜を座らせると、お茶を入れている雲才を手伝いながら聞いた。
「ああ、城下は被害がなかったのでな。一時は荷車にありったけの薬剤をつんで逃げたんじゃが、すぐに帰ってきた。しかしまあそれからが忙しい忙しい。逃げる時けがをしたやら、心の病が出たやら言うて沢山押しかけてきての」
「そうですか……」
山吹は少し黙った。
「今日うかがったのは、小夜さまを診ていただきたくて来たのです」
「うん」
暗がりで見た時は分かりづらかった小夜の顔。その顔にあったのは火傷だった。右こめかみから頬にかけて薄い赤い跡があった。
「ずいぶんと治っている」
「はい。しかし跡が残らないか心配で。すぐに冷せなかったのです」
雲才は行灯を取って、小夜の火傷の様子をじっと見た。
「もう痛みはありませんな」
「はい」
「この様子じゃ後ひと月くらいで赤みも引くでしょう。跡は徐々に消えると思われます」
「よかった!」
山吹は大きな安堵の息をついた。
「後でいい薬をお出ししよう。それを貼っておれば、きれいに治るでしょう。その上でお化粧をしたらほとんど分かりません」
「ひと月、ずっと貼っておく必要がありましょうか」
小夜は尋ねた。
「外出する時は外しても構いませんが、なるべく長い時間貼っておくほうがいいですな。あと陽に当るのもよくありません」
小夜は何かを考えるような目の動きをした後「はい」とうなずいた。
「他の部分は大丈夫ですか」
「あの……その事なんです」
山吹が小夜の代わりに口を開いた。
「小夜さまは火事の後、お心が弱られて……記憶も混濁し、ご自分のやられていたお役目に自信が無いと申されているのです」
「ほお。食欲はありますかな」
「食べることは出来ますが……もともと食が細い方なので判断がつきにくうございます。それにすぐにお疲れになってしまわれます」
「夜は眠れていますか」
「あまり眠れません」
今度は小夜が答えた。
「気鬱の症状が出ておりますな」
「どの位で治りますでしょうか」
小夜が不安気に尋ねた。
「早ければひと月ほどで軽快する者もおりますが……この病は個人差が大きいのです。大事なことは焦らない、ということです。お薬を飲んでゆっくりとしておくことが必要です」
「そんな……」
小夜と山吹は信じられないといった表情をした。
「大奥御年寄がそんなに長く休めません」
山吹はつい口を滑らせた。
「本当にそうですかな?」
大方の予測がついていた雲才は驚きもせず尋ねた。
「確かに幕府の御役目は大事であろう。しかし、あなたがいなくても仕事はまわっております。そんな事、聡明な小夜さまは分かっておられるであろう。
その上でお焦りなのは、御自分の役職が無くなること生きる場所が無くなることに対する、どうしようもない不安なのではありませんか」
「その通りでございます」
「しかしです。ここでは引くことも大事な時期に来ているのではないでしょうか」
「引く?」
「そうです。先陣を切って進むことだけが大事なのではありません。引いて自分の中に入る時期も必要なのです。人間は障害がないとなかなか立ち止まれませんからな」
「頭では分かるのです」
「頭で考えめさるな。これ、山吹、薬湯をすぐに煎じて差し上げろ」
「はい」
山吹が立ち上がり隣の部屋へ出ていった。
「最近は記憶もはっきりしません。今までこんな事はありませんでした。こんな事ではお役目など絶対に出来ません。だからといってわたくしには他に何も出来ないのです……」
小夜はつらそうに息を吐いた。
雲才は何度もうなずいた後こう言った。
「分かりました。二三日こちらで集中的に療養される必要がありますな」
「それで治るでしょうか……」
「良くなると思いますぞ」
にっこりと笑った雲才の顔を見て、小夜は迷子が母を見つけた時のような安心した顔をした。
「山吹と一緒にしばらく泊まっていきなされ」