大火
「火事にございます!火事にございます」
その声に、いっせいに年寄たちは立ち上がった。老女詰め所は、松の御殿奥にあった。
「どこからじゃ!」
万里小路は廊下を駆けてきた女中に叫んだ。
「東の一の長つぼねあたりからの出火でございます。既に一の長つぼねは半分以上が焼けております。現在、東の御錠口、二のつぼねにも引火、こちらも危険でございます。すぐにお逃げください」
「なんと!」
真っ青になったのは夏川と村岡だった。一のつぼね東に自室があったのは、その二人だった。
「御対面所の廊下からお庭に出て、その後中奥へと逃げよ。我らが行って御錠口を開けさせねば。中奥におられる上様も危ない。急がなくては」
万里小路は震える声で指示した。
「中奥には後で参りますので先にお行きください」
「月島!」
走りゆく月島を部屋子の墨越だけが追いかけた。
―靜山……おまつ、山吹―
部屋子たちの安否が気がかりだった。
一の長つぼねの端廊下までくると、きな臭い匂いと煙、遠い悲鳴が渦巻いていた。
足元が熱い。火は床下を這ってきているようだった。
七、八間進んだあたりで、月島は足を止めた。熱気と火の勢いが強くなり命の危険を感じた。
「もうだめです!逃げましょう」
墨越が叫んだ。
「こっちじゃ」
月島は廊下から庭へ飛び降りた。
少し先にある自分の部屋に目をやると柱や支柱は残すものの、すべての空間からは火がぬらぬらと舌を出していた。
「靜山ー、おまつー、山吹ー」
絶叫しながら部屋へ走り寄ったが誰も答える者はいなかった。
『みな逃げたのだろうか』
その時だった。
屋根が崩れ落ちてきた。
火の粉を振りまきながら真っ黒なものが、自分に向かってきたのが、はっきりと見えた。時間が伸びる。
―避けられない―
その瞬間、月島はふっとび、したたかに背中を地面に打ち付けた。
さっきまでいた場所に、ガラガラと屋根が落ちてきた。
再び顔を上げると
墨越はいなかった。
かわりにあったのは燃えさかる火。
火……火。
何も。
聴こえなかった。
御池の庭を横切り、御対面所に近づこうとした瞬間、あかりは手首を掴まれた。
龍才だった。
「だめだ、あかり!」
「離してくださいっ!」
「この勢いじゃ危険だっ」
「離して!」
あかりは大きくもだえた。何度ももみ合い、龍才はついに当て身をしてあかりを失神させた。
そのまま肩にかつぐと走りだした。
―そうだ。逃げるんだ―
遠く、遠く……
龍才はひたすら火から、江戸城から遠く離れることしか頭になかった。
一方、山吹はあかりが龍才に助けられるのを見届けると、火元に向かった。
女たちが悲鳴をあげながら、転がるように逃げていく。月島らしい人影を探すが見つからない。
火の勢いが一番強いのは、やはり一の長つぼねだった。
庭から近づくのが精一杯。東側の火勢が最も強かったが、今や一の長つぼね全体に燃え広がり、火の海となっていた。
がらがらと木材が落ちている。
「月島さまあ!」
何度か叫んでみたが、煙の勢いで声も響かない。息が苦しい。
ごほっ、ごほっ。
目が痛くて涙が出てきた。
―もう無理。逃げよう―
命の危険を感じ、山吹が逃げようと後ろに下がったとき何か柔らかいものを踏んづけた。
月島だった。
ところどころに火傷を負っていたが息はあった。山吹は焼けた打ち掛けを脱がせると、月島を背におぶった。
先ほど靜山といた御池まで来ると振り返った。
もうもうと煙をあげた大奥は、火に照らされ不気味に明るかった。風の向きと、建物の構造、土地の高さから、火がどう広がるか推測する。
山吹はしばらく考えた後、月島を背負ったまま西の桔橋に向かって歩き出した。