月に舞う
数日後、江戸城に激震が走った。
家賢の跡継ぎ、家倖が倒れたのだ。御匙医の見立てでは毒物を飲まされたのではないかと言うことだったが、依然として詳しいことは不明であった。
母親であるお美津の方は半狂乱となり寝込んでしまった。大奥では華やかしいことは一切禁止となり祈祷の日々が続いた。
家賢の奥泊まりも当分はないとのことであった。
靜山は夜の庭で池に映る月を見ていた。
今回の事件に龍才たちが関わっているような気がして胸騒ぎを押さえることが出来なかったのである。大奥に上がってから裳羽服津衆たちからの文はいっさいなかった。
水戸からの指示として、寵愛を受けよ、との大まかな指令がくるものの、手紙はこちらからの一方通行がほとんどである。
大きな海に一人放り出されたような気分だった。家族もなく、情報もなく、不安なまま、誰も知らない場所で囲われたまま一生過ごすこと。
―なんとつらく孤独であろう―
皆、このような思いをしているのだろうか。お宿下がりが叶わぬ者たちは、だからあれほど上様の寵愛を競い、贅沢をし権力を欲し、人を貶めずにいられないのだろうか。
靜山は胸元から笛を出した。唯一、母からもらった形見だった。唇に当てると息を吹きいれた。
中音から始め旋律を奏ではじめた。
もの悲しげな音色に入り込む靜山―あかりは目を閉じた。冷たく澄んだ空気にのせて、どこまでも笛の音はしみいった。
―いまだけは…… いまだけはこの音色と共にいよう―
笛に入りこんでどのくらいたったろう。
不意に気配を感じて靜山は振り返った。月明かりの中に髪を下ろした月島が立っていた。
「なんという美しく悲しい音色じゃ」
「……」
「心が苦しいくらいに震えた。そなた、笛ふきか」
靜山は少し目を伏せた。
「そなたわたしが舞えるとなぜ分かった」
「中指に扇の指だこがあります。それほどになるには毎日、相応の練習をなされていなければなりません」
バサッ。
月島は持っていた扇を広げた。銀地に金の月がかかった舞扇だった。
「わたしに合わせられるか? 」
そのまま月島は扇を返すと腕を前に出し構えた。
「お身体は……」
月島は答えず、視線を固定し舞いに入る気を放った。靜山は、その気に引き込まれたまま月島の姿を見据え、笛に息を入れた。
能「松風」の一場面の形から入った舞は、どんどんと形を変えた。羽のように空を上昇したかと思うと、海の波のようにうねり落ちていく。
胸が高鳴るほど躍動しかと思うと、月の映った水面のように静かになった。
月島は自由に舞った。靜山は寄り添うように奏でた。
―なんて、なんて気持ちいい―
いつしかふたりは微笑んでいた。互いの瞳を見て。
躍動し、躍動し、このまま上昇して…
「お止めください! 」
手行灯を持った墨越が歪んだ顔をして立っていた。
「このような夜更けに、いくら月島さまとて見つかればただでは済まされませぬ」
「心配のし過ぎじゃ」
扇をたたみながらすねたように答えた。
「大奥では只今過分な歌舞お囃子は禁じられております」
「過分だと申すのか」
「このような時期に相応しくない、と申し上げているのです」
月島はふぅ、と小さくため息をついた。
「靜山、帰ろう。冷気が傷にさわる」
「はい」
靜山は胸に笛をしまった。
嫉妬の怒りに燃えた墨越の目が痛かった。
―でも、やはり月島さまは素晴らしい舞手だった―
ふたりで協奏した興奮を、靜山は押さえることが出来なかった。その余韻は官能的で耐えようもなく気持ちがよかった。月島も同じだった。
―もっと舞いたい。靜山の笛に合わせて―
墨越に分からないように、そっと熱い息を吐いた。