不意の縫合術
鍋島斉正にもらったカステラを部屋子たちは、きゃっきゃっと喜んで食べていた。
靜山の部屋子も呼んだので、いま、隣の靜山の部屋は無人のはずである。隠し物を調べるのにいい好機だ。
密かに自室をでた月島は、靜山の部屋に向かった。
「ん?」
今誰かが靜山の部屋に入っていったように見えた。
掻取を着ていなかったので、御端下の者であるように思えた。
『手癖の悪い御犬であろうか』
障子の隙間から覗くと、やはり棚のあたりを探っている。
がらり!
月島は障子を開け放った。
「そなた、ここで何をしていやる!」
「はっ」
息を飲んで見返しているのは御末とおぼしき少女。
年は十七、八といった所であろうか。
「そなたどこの」
そこまで言いかけて月島は棚の先にあるものを見て驚愕した。
小物を入れておく小箪笥。
その前部分が、そっくりそのまま引き上げる形で開け放たれていたのだ。
各段ごと引いて開閉は出来ない。つまり、カラクリ細工の小箪笥であった。開け放たれた小箪笥の中身は棚があり、懐紙に包まれたものが沢山入っていた。
『こんな所に隠してあったのか!』
少女は何かをぎりりと考えているようであったが、一瞬のうちに懐から懐剣を出した。
「見られたからには、仕方ありません」
「誰かっ!」
月島が叫んだと同時に少女は月島に襲いかかった。
一撃目はかわした。
しゅん!
そのまま、横に懐剣が振り回される。
避ける。
少女は攻撃を止めない。
「ああっ」
懐剣を避けきれないと思った。
その瞬間。
動きが止まった。
靜山が。前に…いた。
少女は起こった出来事が理解できないまま目を見開いていた。
「おけがはございませんか?」
靜山は月島の肩に手を置いた体勢で優しく微笑んだ。
「あああ、あかりさまっ」
「騒ぐでない山吹」
低い声で靜山が凄んだ。
「この方を傷つけることは許しません」
山吹と呼ばれた少女と月島は茫然とするしかなった。靜山は左手を背中にまわし刺さった懐剣を確かめた。刺さった部位の下側を靜山は押さえた。
「靜山…」
「大丈夫です」
痛みをこらえながら靜山は荒い息をした。
「障子を閉めてください、月島さま」
恐慌状態であったが、月島は言われた通り人影を確かめ障子を閉めた。
「山吹、まっすぐにゆっくりと懐剣をぬいて」
「でも」
「大丈夫だから。そんなに深く刺さっていない。……それと布」
「布か」
月島は部屋の和箪笥に駆け寄った。血、血を止めたり拭いたりできるサラシ……か何か……
ない。風呂敷があったので数枚手に取って戻った。
「月島さま、山吹が懐剣を抜いたと同時に、傷口を布でしっかりと押さえてください」
「わかった」
山吹が懐剣を抜くと同時に靜山はグッと腹筋に力を込めた。
「ううっ」
力を入れたのは出血を抑えるためであったが、みるみる打ち掛けは血で染まった。
「だめじゃ靜山、御匙医を呼ぼう」 *御匙医:大奥づきの医者
風呂敷で押さえていた月島は半泣きになりながら叫んだ。
「いけません。もっと強くもっと強く押さえてください! 山吹、蒲黄を布に塗って、それを傷口に当てて!」
「はいっ」
先ほどのカラクリ箪笥に走ると、山吹は一つの懐紙を取り出した。
箪笥からはみ出ていた腰巻を裂くと、懐紙に包んであった黄色の粉を塗りだした。
「横になるのじゃ」
立ったままで押さえているのは困難であり体力の消耗も激しい。
「その前に掻取と帯を解き、傷口あたりの衣服を切ってください」
「分かった」
傷は左のわき腹、少し背中にまわったところから斜めに六分(約1・8cm)ほどあった。どうやら帯が防いでくれたらしい。
想定よりも小さな傷口だったので、三人とも少し冷静さを取り戻した。蒲黄が塗られた布をどんどん交換し圧迫し続けた。
山吹があて布をつくり、月島がそれを受け取って押さえるというのを何度も繰り返す。
「山吹、傷の深さはどのくらい?」
「恐らく五、六分(約1・8cm)」
動くとすぐに傷口が開く状態であるのが靜山には分かった。蒲黄の圧迫止血で流れ出るような出血は止まったが、じわじわと出る出血は続いていた。
「靜山、冷水で回りを冷やすのはどうだ?」
月島が急に思い出したように言った。
「いいと思います。怪我をした時、冷たい水てぬぐいで冷やしますので」
「すぐに取ってまいるゆえ」
月島は圧迫を山吹にゆずると、立ち上がって部屋を出ていこうとした。
が、不意に思い出したようにカラクリ箪笥に向かうと開いていた扉を閉め、そのまま急いで部屋を出ていった。
数個のタライとてぬぐい、大量の紙とサラシ、海綿を月島は用意した。
医者もよほど呼びたかったのだが、靜山の意思を汲み、なんとか思いとどまった。
しかし、人手はどうしても必要だった。
信用のおける墨越とおまつだけは、口止めをし、靜山の部屋へ伴わせた。
「なんということ……」
墨越は部屋に入るなり顔色を変えた。
「うろたえるでない。おまつ、次の間にふとんの用意を。あとで大きな油紙を持ってきてたもれ。ふとんを敷いたら、ここの畳の掃除を」
「はい」
表の間は血で汚れていた。すでに黒く乾いていたので完全には落ちないだろう。
「墨越、靜山を奥に運ぶのを手伝ってたも」
「分かりました」
靜山を動かすと、傷口からまた血が吹き出てきた。白くなっていく顔色をみると月島はいても立っていられなくなった。
「靜山、このままでは死んでしまう、御匙医を呼ぼう。皆には分からないようにするから」
「こんな事くらいで死にませぬ。わたしは野山育ちです。大きなケガも沢山してきました。大丈夫です」
靜山は薄く笑った。
「ですが……ちょっと試してみてもいいかもしれませぬ」
「何を試すのだ?」
「縫う、のです」
「縫う?」
「傷口を、お裁縫のようにざくざくっと縫えば血が止まるとか」
半分楽しそうに口に出した。
山吹、月島、墨越は顔を見合わせた。靜山が混乱のため気が触れたのかと、誰もが思った。
「何をふざけた事を……」
「南蛮かぶれの月島さまでも、ご存知ないのですね。紅夷外科宗伝には、傷口を酒で洗い、そのあと木綿の糸で傷口を縫ってから軟膏を塗るように書いてあります。
強い焼酎を用意してください。そして針と木綿糸も。ああ、一応白糸で御願いします」
靜山は笑った。
「そ、そのような事、本気で申しておるのか」
「月島さまは、お裁縫はお得意ではございませんか」
「靜山!」
しかし靜山の瞳には強い意志が宿っていた。
「月島さま、お願いします。これはあなたさまにしか出来ません」
それは啓示ともいえる、絶対の信頼感だった。〝月島には出来る〟という。論理的な理由は全くなかったが、なぜか確信していた。
月島は目を閉じた。傷口を思い出す。
「中の肉はどうする」
「どう、お思いになりますか?」
「思うに、表の傷口でなく、奥のほうも裂けておったように見た。そうなると、一段下の肉も一、二針縫うたがよいやもしれぬ。ただし、細い糸と針でじゃ。木綿よりも絹糸のほうがよい気がする」
「では、そのようにお願いします」
「奥を縫うとき、一旦傷がまた開くぞ。そのうえ、開いたままにしておく必要がある。そう、箸か何かで押さえておく人がいる」
「山吹、お願い」
「分かりました」
「表の傷は木綿糸とするがよいのか」
「たしか、そのように書いてございました。……そうです、確か抜糸をするのです」
「抜糸?」
「はい、幾日かして傷が癒えたら糸だけ抜くのだそうです」
「そのような事が可能であるのか」
「ふふふ、また調べてください」
月島は覚悟を決めた。言われたものを用意し、手燭、行灯、囲炉裏を五つほど仕入れた。
「これで、終わりじゃ」
木綿糸を玉留めし鋏で糸を切った。
靜山は処置中、一言も声を漏らさなかった。
『なんという精神力』
手燭をかざしていた墨越は靜山と月島のふたりを見て驚きを隠せなかった。
「血が出てきません」
縫合した皮膚を焼酎で拭いていた山吹が嬉しそうに声を上げた。軟膏がないので靜山が持っていたドクダミと馬油をまぜ塗布しサラシを巻いた。
「よう頑張った靜山。もう寝るのじゃ」
「痛うて眠れませぬ。月島さまこそ、早うお休みくださいませ」
「……痛み止めは、あるのか」
「山吹に出してもらいまする。もうお部屋にお戻りください」
「分かった。……山吹とやら、そなた御末か」
「はい…」
「では、御末部屋にそなたは今日より靜山の部屋子になったと伝えておくゆえ、ここで靜山を看るのじゃ」
山吹は一瞬驚いた顔をしたが「はい」と答えた。
「墨越、今夜はおまつをここへ泊まらせ、何かあればすぐにわたくしの部屋に報告するよう申し伝えておくれ」
「承知いたしました」
縁側へ出ると雨が降っていた。なんと寒いはずだ。
少し血に酔った体には、その冷たい空気が心地よかった。
――とにかく、今夜はもうゆっくり休みたい――
異常な緊張が解けた為か、感じるのはひどい疲労だった。月島は自分の部屋へ倒れこむようにして入った。