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異国と時期将軍

冬至が過ぎると大奥は、ほっとできる時期となる。

あと半月もすると、年末のすす払い、畳換えなどバタバタと忙しい行事に突入する。


冬の高い空と、黒い厚い雲が北風に、どんどんと流される日のことであった。

月島は遊玄からの手紙を読んでいた。


〝先日預かりし物、本性にて候〟

と、一言だけであった。


『やはり……京おしろいで間違いなかったか。では、なぜつくば屋なる小間物屋から、わざわざ物を買った? 何かあるはずだ』


「月島さま、佐賀藩主、鍋島斉正なべしまなりまささまがおいでになったそうでございます」


墨越が控えから声をかけた。

「分かった。すぐに行くと申し伝えよ」


 鍋島斉正は当時の藩主としては機才で、藩学校を作ったり、自ら蘭学を学んでは蘭癖らんぐせ大名と呼ばれるような人物であった。


佐賀という土地柄から外国との交易の重要性も早くから熟知しており、幕末に向かい近代化に向かい大きな役割を果たしていくのだが、それはもっと先の話である。


 月島と知り合ったのは、斉正が藩主をついで五、六年たった頃であった。

蘭学好きな月島を喜ばせようと家賢いえよしが、斉正に会わせたのである。


それ以来、気が合ったふたりは時折文を交換し、お互いに何かと情報を手に入れては、国の安否を憂うといったことまで書きつらねていた。



「斉正さま、お久しぶりでございます。ご健勝であられましたか」


役人らと会談する御広座敷は、いやに暑かった。

囲炉裏が、過剰に置いてあったからだ。


「ん。月島どの、久方ぶりじゃの。いや相変わらず美しい」

が、少し痩せたようだ、と言おうとして止めた。そんなことは月島が一番分かっているはず。大奥御年寄ともあろう立場、気苦労が多くない訳がない。


 藩主を継いで十一年。斉正は二十八歳。

少し細めの切れ長な目、八の字の眉がどこか可愛らしさを感じさせた。

すっと伸びた鼻と顎の形は、育ちのよい品のよさを現していた。


だが、この凡庸な外見とは裏腹に、その中味は明晰で鋭利であることを月島は誰よりも知っていた。


「これからわしは国元に帰り申す。その前に年末の挨拶を兼ねての、月島どのの顔を見ておこうと思ったのじゃ」

「それは、それは。このようなばばの顔を見てとは、ご酔狂な。道中、どうぞお気をつけくださりませ」

「ばばなど、思ってもみぬことを」

斉正は大仰に笑った。


 それより、と斉正は周りを見渡して、声を潜めた。

その真剣さと空気を感じて、月島は立ち上がって斉正に近づいた。


「いま大奥で家賢さまの、ご寵愛を一身に受けられているのは、靜山どのというお方であり、その靜山どのは月島どの付きと聞いておるが、確かであろうか?」

「今のところは……そうですが。それが何か」


「いや」

一度斉正は口をつぐんだ。


「お世継ぎの事を何か聞いておらぬか。上様は、家倖さまを、どう思っておられるのか」


月島の顔つきが変わった。

眼光に光が点り、唇がくいっと上がった。


「上様は未だ決めかねておられるようです。お心うちでは家倖さまに継いでいただきたいと思っておられるようですが」

「この状況で、そんな事を言っておれん」

音に出ない声で、斉正は強く言い放った。


冷静な顔で月島は受けた。

この先を続けるよう促す表情であった。


「そなたにも何度か文で書いたが、わが藩近海に、この数年頻繁に異国船が出没するようになった。昔は幕府との取り決めを守っておったのだが、色々な国の船がやってくるようになって、近頃では横暴なふるまいが頻発しておるのだ。


大型船が漁場を荒らす、勝手に陸に上がり商売をする、地元の者と騒動をおこす、など収集がつかぬ。しかし、最も困っていることは、脅迫めいた大砲を撃ったりすることなのだ」


切れ者で行動家の斉正でさえ憂う自体であることはすぐに理解できた。



「あの力を見せつけられると、この国の武力ではもう全く歯がたたぬ。何でも言う事をきかねばならぬ、と思わされるのだ。……そんな状況を知らず、幕府の者は寝ぼけたことばかり言いおって、真剣に対処しようとせぬのだ。いや、誰ひとり出来ぬ、と言うのが正しいのだが」


斉正の言いたいことは分かった。


「そんなにその大砲とやらはすごいのですか?」


「ああ、大筒の数十倍はあるだろう。それが数十と船に設置され船上から、海へ玉をぶっぱなすのだ。どかーん、海の水が、どばーん!! と十丈(約30メートル)ほども立ちあがる」

「十丈も?」


「地響きもものすごい。地震のようにドドドドドと音がしたかと思うと、津波のような波が岸へ押し寄せるのだ。海で一発撃っただけであれだ。あの玉が陸に向かって何発か打たれたら、小さな山などひとたまりもあるまい……」


「なんという」


 月島は恐ろしさの余り口を手で被った。


 そのように恐ろしい破壊道具が存在するとは…… もし、そんなものを使う戦が起これば、この世は地獄ではないか。「ぴすとる」という自動短筒が存在することは知っていたが、大型兵器を実感したのは初めてだった。


 暑いはずの御広座敷で、ぶるると月島は震えた。


「どうすればよろしいのか。その事、当然上様はじめ老中もご存知でありましょうが……」

言ったあとで無能な人事を思い月島は首を振った。この難局に対応できる柔軟な頭の者は誰ひとりいなかった。


「してじゃ」

「どうされまする?」


「今、この危機に気づいて真剣に動いておるのは幾つかの藩だけだ。薩摩、長州、水戸、黒川、そしてわが佐賀……」


黒川藩?

月島の中で靜山の出身に結びつき何かが琴線に触れた。


「皆、それぞれに幕府に異国船対策を言上しておるが遅々として進まぬ対応に、とうとうしびれを切らしたのだ。暗愚な幕閣連中ではどうにもならん。


あやつらは異国が攻め込んできたら、幕府も大奥も藩も、もちろん朝廷さえもなくなってしまう、という事実を分かっておらんのだ」


「幕府も大奥も?」

「朝廷もだ」

斉正は律儀りちぎに追加した。


 月島にとっては実感がわかなかった。

連綿と続いてきた、この大和の国が属国になってしまうということが。それはすべての基盤が崩れ去る、ことを意味していた。


「わが日本は神国ですぞ。神風が吹いて蒙古も退散したではありませぬか」

「では、なぜ大砲を神風は吹き飛ばしてくださらぬのか」


その通りだ。


東インド会社という組織が、アジアを侵略しつつあり、隣の清国がエゲレスと戦争をして大敗したのを、知っていたはずだ。


日本は大丈夫であろう、などとどうして思えよう。


「では、いったいどうすればよいのです?」

「圧倒的に強い将軍が、とにかく今は必要だ」


月島はうなずいた。


老中や若年寄の言動に翻弄される将軍では困る。

自ら意思を持ち、この難局を乗り越えられる家臣を揃える。

二百年の太平は終わったのだ、とはっきり理解出来る人物が必要であった。



「田安家の徳川 慶匡よしまささまを推していただきたい」

「田安家の徳川慶匡さま?」


「慶匡さまは、若い頃から全国を放遊されてきた方で見識も広い。学問好きで頭が固いだけの学者かぶれでもない。実践主義者だ。こういった異例の経歴の持ち主でないと、前例のない出来事には対応できぬ」


「慶匡さまは、次期将軍としてのお話、お受けになっているのですか」


「打診はしたが、ご本人は何とも言われぬ。こういったことは危険であるからの。だが、ご本人も外国の脅威は何よりも憂いておられるのだ。実際、異国船や異国人を知っておられるのだ」



 思わず「はぁ」と、小さなため息をついてしまった月島だった。


 今の家賢に自分の言葉が届くかどうか、分からなかったからである。

実際、靜山への寵愛が深いのは確かであったが、のめり込むのを堪えている、一歩引いて崇めている、といった感があった。


その上、家倖を押しのけて、田安家の人間を跡目にするなど、家賢の中では論外な話であろう。


『せめて、家倖さまがいなければ、まだ話は可能であるが……』


「月島どの、そなた家倖さまがいなければ、と思ったであろう」

ぎくりとする月島に、再び声を潜めて斉正は迫った。


「そう、憂うな」

斉正はにやりと笑った。

何か手を打ってあると言うことだと、月島にはすぐに分かった。


恐ろしい男。なんという切れ者であろうか。


「家倖さま以外の方が跡目となられたとて、上様がご隠居されるとはまず思えませぬ」

「それは、その時よ」


月島は気が抜けた。

さんざん脅かしておいてこうだ。


しかし、確かに時期将軍の決定のほうが、すでに将軍となっている家賢よりも大事な点ではある。


「そなたは頭もよいうえ、やり手である。ここまでの話を聞いておれば、どう動くはそちらにお任せする。家倖さまのことは、こちらで何とかするゆえお気に召されるな」


「そんな言葉だけでは、あまりに勝手でござりまする。それではこちらはどこまで上様に言上申し上げたらいいか、一向に分かりませぬ」


「いいや、そなたは分かっておられるはずじゃ。……時期じゃ。時期をみて、そなたは上手に上様のお心を動かされるよう動けるはず。お願いじゃ、この日本がこのままでは異国の属国にされてしまうのだ」


それは月島にもとっても、じっとしていられない事実だった。

「分かりました。何とかできることからやってみますゆえ」

「頼みましたぞ」

心からホッとした様子で、斉正は破顔した。



「ああ、忘れておった。こちら、月島さま御用達、三条屋から仕入れた化粧品と、長崎より仕入れた香油をお持ちした。これで、いっそう美貌に研きをかけてくだされ。あまりに美しくなったら、もうわしなどにはお会いしてくれぬかもしれぬので、そこそこにしてくだされ」


 三条屋の化粧品、月島専用の粘土おしろいは特注品である。

また、香油は珍物で、外国から取り寄せないければならない。


 細かに好みを調べてみやげにするなど、斉正は女の心を掴む腕も一級であった。

反面、美しさに磨きをかける道具、つまり月島を通じて靜山にもたらされるはずということが分かり、任務の重責も感じた。


「かすていら、も沢山お持ちしたゆえ、部屋の皆で分けてくだされ。そして何よりプリムローズ」

そう言って斉正は手を叩いた。


 控えから、御付きの者が桃色鮮やかな花が咲いている鉢を持ってきた。

「これは南蛮でプリムローズと呼ばれる、さくら草の一種だそうだ。この鮮やかさと華麗さは、艶やかな月島どのに、一等似合うと思うての。お持ちしたのじゃ」


「これは何と美しい…」

薔薇に似た中ぶりのプリムローズが、鉢に可憐に咲いていた。

南蛮風に艶やかで華麗であったが、どこか品があった。


「今日いただいた中で、最も嬉しゅうございます。心が満たされます」

「その花だけは、純粋にわしの気持ちじゃ。すまぬの…」


少し頭を掻きながら照れる様子が、斉正の憎めないところだった。

『全く得な性分のお方じゃ』


月島は素直にこの斉正の均衡感覚が好きだった。


『これからの人間はこうでなければならぬ。人を動かすのは何より心が大事だ。こういったお方がいる限り、まだまだ日本も捨てたものでない。暗い側面ばかり考えるのは止めよう』


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