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夜伽

第三章

 小さな紙に包まれた、白い粉を月島は観察していた。


靜山の部屋から、おまつが盗んできたおしろいである。

自分の京おしろいと比較してみて、色や匂い味は大きく変わらないように思えた。


『動物に与えたとて鉛である白粉自体、有害…これでは確かめようがないではないか』


当時使われていた京おしろいは鉛でできており、大量に使う舞台役者や大奥では鉛中毒者が多かったと言われている。


その事を知っていたものは、ごくわずかであったが、月島は知っていた。

情報通の月島は代用品として、タルクのような粘土に化粧水や椿油を混ぜてを使っていた。


『これは京おしろいであろう。……とすると、もっと他に何か隠してある場所があるに違いない』

 しかし、今日は探索どころではなかった。


部屋局として、上様への褥入りを準備せねばならないからだ。


「おまつ、これを神田白壁町の遊玄ゆうげんという町医者に届けさせるのだ」

二つのおしろい包と文と金子を渡す。


これが確かに京おしろいである、ということを綿密に調べて欲しいとの旨を手紙には記していた。


 遊玄はオランダから入ったといわれる顕微鏡を持っていたし、何がしかの実験をして反応から同じ物質であることを確かめてくれるだろうとも思っていた。

月島は大奥御匙医の無能を知っていたので、自分のお抱え医師を持っていたのだ。




 靜山は入浴後、米ぬかで念入りに体を磨かれ、髪を乾かされ、襟足や鬢を剃られたあと、綸子の夜着を纏わされた。今までに嗅いだことのない甘く爽やかな香りが、夜着から香る。


これは、いったい何だろう?

化粧はごく薄く施され、結髪から降ろし髪となった。

鏡に映った自分の姿を見る。


靜山は『大丈夫だ』と肯いた。

大丈夫、素顔に近いほど、わたしは美しい。


母に似てきた容貌に少し恥ずかしさを感じたが、母の思い出は裳羽服津の存在にすぐに変わった。

『さあ、しっかりしろ!あかり。お役目本番だ。今日は何も細工はしない。武家の娘として、上様の寵愛をいただく努力をするだけ』


「月島さまがおいでになりました」


 部屋子が言うと同時に、黒地の打ち掛けを着た月島が靜山の部屋に入ってきた。

「どんな様子だ?」


「ご指示どおりご用意が整いました。大変美しゅうございます」

部屋子の娘が自慢げに返事をした。


座っている靜山を立って見下ろしていた月島は、靜山に立ち上がるよう命じた。

「うん」

少し距離を置いて靜山を見た月島は満足げに頷いた。


「やはりそなたは薄化粧のほうがよい。本当はいつもそうしていればよいのだ」

そう言う月島は、今夜はやけに厚化粧であった。


肌が見えぬほど真っ白におしろいを塗り眉も薄かった為、何かグロテスクな風体であった。(それが大奥高位の本来の化粧であったが)


不意に月島は靜山の髪に手を入れた。

「指示どおり、髪は八割乾かしただけだの」


そのまま靜山の後ろに回って、止め紐を解いた。

ふわり、と髪が広がった。


「ここからはわたくしがする。皆、下がってよい」

部屋たちは、一礼をすると、衣装や道具を持って出て行った。




 再度座るよう指示された靜山は膝を折った。

椿油が入った壷や道具を身元に寄せた月島は、慣れた手つきで髪に付ける油と香油を調合した。手の平で温め、靜山の髪に手を入れた。


「髪油は、まず髪の内側からつけ、そのまま毛先に滑らす。毛先も少し多目に付けるが、着物に触れる場所ゆえ沢山つけてはならん。そして手ぐしで何回も梳く」


手ぐしで髪の性質を確かめながら、油の量を調節していく。

「やや少ないくらいの状態でつげ櫛で梳いていく。すると調度よい手触りとなる。もし油を均等に付け、そのまま櫛で梳くとベタッとして野暮ったく、触った時気持ち悪いのだ」


しとね経験のある月島だからこその気遣いである、と靜山は分かった。

結髪とは違った手入れの方法だった。

否。

これは月島独自の方法であろう。


 蒸留法で作られた香り油を見たことがなかった靜山は、非常に驚き惹かれた。これを、薬として術として使うことは可能ではないか、と。

香り油は今でいう精油。靜山の予測は外れてはいなかった。


甘いお香に似た香りのほかに、微かだが蜜柑のような香りがした。

これは夜着にかかっていた香りと同じだった。


「そなたは若いので乳香だけを纏うより、少し爽やかである香りが入っている方がよい。蜜柑と同じ種の香油を混ぜてみた。どうじゃ少し軽くなったであろう? 香木では出せぬ香りだ」


「いい香りです」

香油のことを聞きたくてたまらなかった。が、それ以上に月島に髪を触ってもらう感触が心地よく、うっとりした感覚に浸ってしまった。


「大体こんなものか。触れてみよ」

手入れが終わったのを確かめさせる為、靜山に髪の状態を確認させた。


「柔らかくてしっとりで……それでいてさらさらしています」

適度な水分、油分、自然な手触り。

このような髪の状態は初めてだった。


『なんて月島さまの知識と技術はすごいのだろう』

靜山は改めて月島という人物に強く惹かれた。


月島は何度も髪を広げては、手を離し髪の間に空気を入れた。

羽毛のように、髪がふわりと微かに頬にあたる。鼻腔の奥にはうっとりする香。

それは官能的であり、空気から体全体を愛撫されているような感じであった。


「上様は、お気に召すと思うぞ」

月島は慈しむよう言った。


その言葉が靜山を現実に引き戻した。

一瞬、沈黙が降りた。

「靜山?」


一点を見つめたまま固まってしまった靜山は、状況を理解しようとしていた。


「はい。わたくしの為に月島さま自ら、しつらえてくださりお礼のしようもございません。精一杯お役目、務めさせていただきます」


深々と頭を下げた。

月島に会うといつも調子が崩れてしまう。お役目を忘れて自分に戻ってしまいそうになるのだ。そのギャップに心が分裂しそうだった。



 将軍のねやとは完全に開かれたものだった。


 同衾どうきんする女人と将軍の両脇には、御伽おとぎ坊主ぼうずと他の御中臈が控え、常にふたりの情交・会話を聞き、次日に御年寄に報告する義務があった。御伽坊主とは剃髪した女の坊主のことである。


それだけでない。


隣の御下段の間では、また他の御中臈と御年寄が宿直として寝ていたのである。


 そんな中、将軍・家賢いえよしは御小座敷にゆっくりと入ってきた。

御下段の間(寝室の手前の部屋)で頭を下げている月島を見て、家賢は一瞬ぎょっとした。


靜山の後見でもある月島がいるのは当然であるし、他の日も何度も宿直をしてきたのも分かっている。

しかし、今日だけは居てもらいたく無かったのだ。


「………」

家賢は御上段の間に入った。


「顔をあげよ」

 白い夜着に着替えた靜山は、静かに面をあげた。

その名の通り、夜に冴える静かな湖のような表情だった。


美しい。

だが、それだけではない。


体の奥底、いや、もっと根源的なものから発せられる、熱いものが靜山にはあった。

意思の強さなのか、情熱的な感性なのか、聡明なる意欲なのか。すべてのものがないまぜとなり存在感を感じさせていたのだ。


「落ち着いておるの」

「とんでもございません。喜びで胸がいっぱいでございます」

家賢は靜山の髪に手を入れた。


そのまま、裾に手をすべらせる。

「完璧じゃ…」

囁くような小さな声で家賢はつぶやいた。

ふたりとも思っていることは同じだった。


「そなたのようなおなごの心を射止める者とは、どのような人間であろうの」

靜山の表情が一瞬だけ崩れた。


「例え将軍といえど、人の心までは好きに出来ぬ」

そのまま家賢は靜山の横に腰を下ろした。


「人間には質というものがある。身分には全く関係なく生まれつき備わっている質は、どうあがいたとて手に入らぬのだ。無い者にとっては眩しい程に心惹かれるのに、自分を顧みて、その差に愕然とさせられる」


表情は変わらなかったが、家賢の胸から張り裂けるような思いが伝わってきた。

「靜山、そなたは余と質が違うのだ。うまく言えぬがその」

「上様」

靜山はさえぎった。


「何を仰せにございます。ほんの小娘ごときに、天下の将軍さまが劣るなどありようもございませぬ。いいえ、例え将軍さまでなかろうと家賢さまは聡明で努力家で心の綺麗なお方だとわたくしは思っております。質が誰かに劣る、などと、幻想でござりまする」


ああ、月島さまならもっと気の効いた事が言えるのに、靜山は歯がゆかった。

だが、家賢は驚いた子供のような顔をすると、じっと靜山の顔を見た。


「そのような事を言われたのは、初めてだ」

しばらく沈黙が降りた。


「武家の男子は強うあること、聡うあること、御家を栄えさせること、を旨としておるので、心が綺麗であることに大きな価値があるなど気づかなんだ」


辞気じきいだして、斯に鄙倍ひばいに遠ざかる。見ていれば分かります。上様が人を誹謗中傷されたり悪し様に言われたりするのを聞いたことはありませぬ」


「それは徳であるのであろうか。ただの意気地なしではないのか」

「いいえ。もしそうであるなら曽子が間違っていることになりまする」

「はははっ。言うの」

靜山も笑った。


そのまま家賢は靜山を引き寄せた。

家賢の緊張が解けた空気が感ぜられた。


「久しぶりに心が温こうなった。礼を申すぞ」

ゆっくりと靜山はうなずいた。

家賢の影がしずかに靜山に重なった。


 隣の部屋では月島が、まんじりともせず二人の会話を聞いていた。


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