そして内命
あかりが裳羽服津村を離れて約三年がたとうとしていた。
江戸小石川にある水戸藩江戸屋敷。
十八万坪もある広い広い庭。
それを配す邸内に、あかりは居た。
江戸屋敷での扱いは、家老・安藤帯刀の娘としての奉公である。
日中は藩主の奥方の世話をし、夜は安藤家で休むといった日々であった。
藩邸に上がったのはここ半年ほどで、その前は安藤邸にてみっちりと武家作法・習い事を仕込まれていた。
小石川後楽園に咲く菖蒲が目にも鮮やかとなったある日。
藩主・為昭にあかりは召されたのだった。
側には養父である安藤帯刀も控えていた。
「今日はな、そなたに大事な話があって呼んだのだ」
「はい」
一通りの挨拶が終わった後、為昭は一段声を低くした。
「この幾年、そなたはよう頑張ってくれた。礼を申すぞ」
「身に余るお言葉、痛み入ります」
「でな、そなたも何とのう気づいておると思うが、そなたに大奥でのお勤めに上がってもらうことになった」
「では、わたくしが?」
「ん」
為昭は選ばれたのはあかりである、と大仰にうなずいた。
「ここにやってきた客人たちが何人も、そなたを嫁にもらいたい、と言った。また、黒川藩主の柳沢どのや家老の横井どのにも太鼓判を押していただいたのでな。
わしはな、そなたが美しいというだけで、この役目をそなたに決めたのではないのだ。何よりも聡明であること、機転が効くこと、度胸があること。これが何より大事じゃ」
あかりはうなずいた。
「大奥は魑魅魍魎が跋扈しておる。女の業が渦巻く世界じゃ。そこでやっていくには、並大抵のことではない。美しさだけではやっていけん。否、美しいがゆえ嫉妬の的ともなるのだ。よいか、あかり」
「はい」
「そなたは大きな陰謀に巻き込まれるやもしれん。女としての人生を狂わし、立ち上がれないような事もあろう。しかし、それでもやってもらいたいのだ」
「はい。今までお殿さまに受けたご恩忘れませぬ。裳羽服津衆の一員として、またわたくし個人としても精一杯、お役目を遂行させていただきたいと思います」
あかりの姿を、養父である安藤帯刀は笑みを浮かべながら見ていた。
「詳しいことは、わしから話そう」
優しげな声で安藤はあかりに向かって、膝を向けた。
「そなたのお役目は、大奥に御中臈として入るところから始まる」
安藤は、あかりの前に詳細を記した紙を置いた。
大奥役職の一覧のようである。
「御中臈は上様の身の周りのお世話をするのが仕事である。もっとも上様のお手がつきやすい役職じゃ。じゃが、最初から新米の中臈が上様直々のお世話をさせてもらえる訳もない。まずは、有力な御年寄の下で働きながら大奥のしきたりを学ぶのが先である。
融通のきく御年寄の元に配属されれば、大奥の仕事に忙殺される事はなく、われわれのお役目に重きを置くことができる」
「上様のお手がつきやすいように、とのことでございましたが、お役目としてお床入りは、どれほど重要なのでしょうか」
今までの経緯から考えても、美貌は大事な要因であった。しかし、それだけが仕事とは思えなかった。
「さすがだ、あかり。上様のご指名は重要である。はっきりいえば寵愛を一身に受けてもらう必要がある。その為の床技巧や媚薬を使ってもらうのも構わん。だが」
安藤は少し言いよどんだ。
「もしそなたが上さまの世継ぎを生んだとしても、その子は将軍できぬ」
「……はい」
返事はしたが意味がよく分からない。
「つまり、そんなに待っておれぬ、ということじゃ」
「それは外国船問題があるからでしょうか」
「……まあ、そうじゃ」
ここで為昭が立ち上がってゆっくりとあかりに近づいた。
「酷なこと言っておると思う。しかし、もう猶予はならぬのじゃ。もし、もしじゃ……もしそなたへの上様の寵愛が不動のものとなった折には、わしが考える次期将軍候補を推薦してもらいたい」
「それは……」
「それは政局をみて、おいおい沙汰いたす。上様は現在のお世継ぎであられる家倖さまに心許ない思いをされているのは確かだ。もちろん、わしらも家倖さまでは困るのだ。乱れた時勢を変えるには、次期将軍として強い実行力をもつ方が必要なのじゃ」
間近でみる為昭の眼光は力強く真剣であった。
「家倖さまは体もお弱い。いつ身罷られるか分からぬ。だからと言っていつまでもご健在であられても困るのだ」
その言葉の裏の意味があかりにはすぐに分かった。
「では、わたくしに家倖さまを?」
「いや。それはまだよい」
あかりの眼を覗き込むようしゃがんでいた為昭は、立ち上がった。
「だだ、忍びの情報からも、いま世情がどうなっておるか、そなたも多少は知っておろう。……多くは言わぬ。しかし、わしを信じてお役目を果たしてくれ」
あかりは、はい、とうなずいた。
「大奥の様子は逐一報告して欲しい。寵愛を受けている女人や、その権力構図、噂話まで必要じゃ。また、老中たちが御年寄にこそこそ頼み事をしている内容などは大事である。これは年寄付きであるからこそ出来る仕事なのだ」
「わたくしが配属される御年寄は決まっているのでしょうか」
安藤が口を開く。
「万里小路さまという京から来られた上臈御年寄じゃ。万里小路さまは、現在の大奥で強大な権力を持っておられる。その手腕は公家出身としては異例のこと。
そなたも重々気を抜かぬことだ。万里小路さまはこちらの計画を大方ご存知であられる。しかし、藩としての内情までは話さぬことじゃ。そなたは、ただ上様を籠絡して溺れさせるのがお役目である、と心得よ」
「はい」
「この計画は絶対に洩れてはならぬ。そなたは黒川藩、家老の娘として入台するのだ。それゆえ文を書くときは、家老横井殿の江戸藩邸をあて先とし、用向きがある時も横井殿に頼むのだ」
先ほども出てきたのだが、なぜ、黒川藩なのだろうか。
そういえば何回か黒川藩の藩主や家老にお茶を出したことを思い出した。
「黒川藩の娘として振舞う理由を、そなたが知る必要はない。ただし、黒川藩の処々はそなたは知っておく必要がある。明日よりそなたは黒川藩 越後に向かうのだ」
「越後…」
「くに元から来たという身元になっておるゆえ、越後を見ておくのも大事じゃ。その後は横井どのの江戸屋敷にて過ごしもらう」
政治的思惑は、怒涛のように動き出した。
早る胸と緊張を抱えて、あかりはこれからの日々に思いを馳せた。