近づいてくる夢
夏のホラー2024で投稿した「顔のない怨念」
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に登場する、義兄弟とその周辺の人々の話です。
小鳥遊陽充(はるちゃん、僕)
生真面目で面倒見が良く、お人好し。また好奇心旺盛で様々なことに首を突っ込んで痛い目にあっては義兄さかえに助けられている。
新卒で入った企業で人付き合いに悩み、うつ病になって退職した経緯を持ち、悩みを抱えやすい。お話における「ワトソン役」
烏丸さかえ(さかえ義兄さん)
極めて自堕落な自称作家。陽充の姉で故人の烏丸れおなの夫で、現在は義弟陽充と共に生活している。義弟陽充の前では彼をはるちゃんと呼び、ヘラヘラしている胡散臭いおっさん。お話における「ホームズ役」
――すすった鼻腔に突き刺さる、ねばつくような潮の臭い。僕が二階に上がりたくなかった、自室に入りたくなかった、元凶の臭いが、今リビングに漂っている。
嘘だろう。いつからだ。だってさっきまでしてなかった。さかえ義兄さんがいるときは臭いなんて。いやそれより、あれは二階の自室にある。元凶がこんなに離れてて、なんで。
ざん、と潮騒が聞こえた気がした。
背後から、湿った風がねっとりと首をなめる。
まさかそんな。昨夜は、変な夢を見せてきただけで。
起きていても、あれは来るのか。
怖くて振り返ることはできなかった。だが、何かが背後から近づいてくる気配はしていた。
いや違う。きっとこれは夢だ。夢なのだから覚めるはずだ。リビングでいつの間にか眠ってしまって、寝る前に嫌なことを思い出していたせいで昨日のいやな夢をもう一度見てしまっているだけだ。
「さめろ、さめてくれ。さめてくれ……ッ!」
思わず小さな声で祈る。いつの間にかうつむいていた顔をあげれば、そこには一面、海が広がっていた。
暗い青い海。灰色の砂浜。そして――足元に「それ」がいた。
吐き気を催す、「それ」の臭い。
そうだ。昨夜、僕はこの臭いの正体に気づいていた。
こいつは――こいつは、海を漂い、あの浜に打ち上げられたのだ。
海鳥につつかれ、小魚や肉食魚についばまれながら、ゆらゆら、ゆらゆらと。
そこに、意図はないのかもしれない。
それでも、それでも、その臭いをして歓迎せしむるような、そんなものでないことは明らかだった。
腐り落ちた手足。
崩れた顔。
融けた眼球。
本来は、正しくあるべき場所で正しく眠るべき、その姿。
それは起き上がり、そして、顔を上げた。
目が――あった。
思わず声にならない悲鳴を上げて飛び起きる。もう我慢がならなかった。
震える足で何とか立ちあがり、リビングを出る。階段を駆け上がり、自室の前に立った。
「……――っ」
部屋のドアを開けるのにかなりの勇気が必要だった。だが、これ以上何かが起きる前に、あれを処分してしまうしかないと、僕はその時、心の底からそう思っていた。
意を決してドアを開ける。むわりと漂うそれはもう、潮の臭いではなかった。
それは、水の中で腐っていく、「生きていたもの」の臭いだ。
一歩踏み込めば、スリッパがぐちゃりと音を立てた。床が濡れている。臭いは部屋中に充満し、それは床にまき散らされたその水からも臭っていた。
吐き気を催しながら口を押さえ、電気をつけて部屋の奥へ進む。棚に置かれたジオラマを覗き込んで、その想像だにしない、しかしどこかで予想できていた展開に、思わず言葉を失った。
沖合、浜から遠く離れていたはずの、黒い異物。
それが今、海の中央あたりにまで来ていた。
そして――ゆれていた。ゆらゆらと。樹脂の、透明な固形の海の中を、ゆらゆらと。
ぞっとした。自分が何か、得体の知れないものを買ってしまったのだという恐怖から、そのままジオラマを床に叩きつけようとする。
「――待った。はるちゃんそれはよくない」
振り上げたその手を掴んだのは、さかえ義兄さんだった。