悪夢の臭い
夏のホラー2024で投稿した「顔のない怨念」
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に登場する、義兄弟とその周辺の人々の話です。
小鳥遊陽充(はるちゃん、僕)
生真面目で面倒見が良く、お人好し。また好奇心旺盛で様々なことに首を突っ込んで痛い目にあっては義兄さかえに助けられている。
新卒で入った企業で人付き合いに悩み、うつ病になって退職した経緯を持ち、悩みを抱えやすい。お話における「ワトソン役」
烏丸さかえ(さかえ義兄さん)
極めて自堕落な自称作家。陽充の姉で故人の烏丸れおなの夫で、現在は義弟陽充と共に生活している。義弟陽充の前では彼をはるちゃんと呼び、ヘラヘラしている胡散臭いおっさん。お話における「ホームズ役」
――遠く、潮騒が聞こえる。
目を開くと、見慣れた光景が広がっていた。
広がる浜辺、遠く波を運んでくる暗い海。
その向こうから――何かが、来る。
(……だめだ)
あれはだめだ。よくないものだ。
霊なんて信じていない自分でもわかる。あれは上がってきてはいけないものだ。しかし、それは少しずつ少しずつ、浜に……こちらに向かってきている。
同時に鼻の奥に感じ始めた――水が腐ったような臭い。
ひゅ、と喉がなった。恐怖と吐き気がせり上がる。
(夢だ。これは夢だ)
頭を抱えて念じる。夢なら早く醒めろ。あれが自分を捕まえる前に。あれがこちらに気づく前に。あれがこちらに……。
「……醒めろ、さめろさめろ、覚めろッ……!」
声が洩れた。恐怖と、臭いから来る吐き気とで、頭がおかしくなりそうだ。
あれはもう波打ち際まで来ていた。
立ちあがろうと、手をつくのが見える。
びちゃ、びち、ばちゃちゃ。
濡れた音と一緒に、むう、と臭気が迫ってくる。
それは顔を上げ、こちらを見た。
流れが止まったドブみたいな、魚が腐ったみたいな、異様な臭いが鼻をつく。
海藻みたいに貼り付いた髪の下から、光のない、濁り切った何かがのぞいた。
「――……ッ、ぁ、あ゙」
それが「目」だと気づいたその瞬間、思考が破裂する。声にならない絶叫と共に掛布を押し除けて、飛び起きた。
ひどい動悸に息があがる。苦しい。それでも、あの夢から醒められたことに、なんとか息をついた。もう怖くはない。大丈夫。もうあれはいない。いないのだ。
――むう、とまた、腐った水のような匂いがした。同時に、磯の匂いも。
吐き気と絶望感が、まるで波のように打ち寄せてくる。嘘だろう、だって今自分は目が覚めて。あれは夢の出来事で。だから。
だから、いるはずがない。ここにあれが、いるはずがない。
だが、だとしたら。
なんなのだろう。息もなく、ただただこちらを見つめている、ベッド脇の濡れた気配は。
なんなのだろう、先ほどから感じる、掛布と寝巻きがわりに履いたスウェットの湿り気は。
見てはいけないと知りつつ、自分の顔が気配の方へ向くのを止められなかった。
――そして、至近距離に迫った、水でふやけ、膨張し、崩れた顔を認識したその瞬間。
「……――ッあ゙」
ばづんッ、と音を立てて、脳の全ての機能がシャットダウンした。