伯爵夫人ですが、夫と家庭内別居することに決めました
男爵家の令嬢レノア・ソルテはキャラメル色の艶やかなセミロングの髪を持つ令嬢だった。
ある日の夜会にて、年下であろう令嬢が壁際でおどおどしているのを見かける。
おそらくデビュタントを迎えたばかりなのだが、内気な性格でどうしていいのか分からないのだろう。
レノアはその令嬢に気さくに話しかける。
「よかったら一緒に踊らない?」
年下の令嬢は遠慮がちに答える。
「え、でも、あなたは男性と踊りたいのでは……」
「私はダンスが好きだから相手には拘らないの。さあ!」
「は、はい……!」
年下の令嬢の手を取る。
レノアは内気な令嬢をリードする形で、最後まで楽しく踊った。
「とっても楽しかったわ! どうもありがとう!」
笑顔のレノアに対し、その令嬢は感謝と尊敬の眼差しを浮かべていた。
それから一週間後の夜会で、レノアは一人の令息から話しかけられる。
「君は先週の夜会で、壁際にいた令嬢を誘わなかったかい?」
「ええ、誘いましたけど……」
戸惑い気味に応じる。
「あれは私の妹だったんだ。デビュタントが上手くいかず落ち込んでいたところを君に助けられたと言っていた。どうもありがとう」
レノアはそんな立派なことはしていないと手を振る。
「いえ、私は自分が楽しみたかっただけですから」
「そうだとしても妹は救われたんだ。おかげで夜会への苦手意識がずいぶんなくなったようだ。よかったらお返しをさせてくれないか?」
「お返し、というと?」
「一緒に踊って欲しい」
「喜んで!」
レノアは宝石より指輪より、踊りが好きというタイプである。
ちなみに誘ったのは伯爵家令息のマティウス・シャイング。金髪で翠緑の瞳を持つ、穏やかな貴公子だった。たった一回の夜会で二人の距離は急速に縮まった。
やがて二人は婚約し、結婚。マティウスが家督を継いだことで、レノアは伯爵夫人となったのである。
***
レノアとマティウスは夫婦で社交の場に出ることが多かった。
出会った頃の初々しさを保ちつつ、貴族としての貫禄を身につけつつある二人は、各所のパーティーで注目され、名を高めていった。
そんなある日の晩餐会で、二人は日頃から親しくしている同世代の貴族から、こんなことを言われる。
「普通、こういう場に夫婦で来た時は、夫と妻で分かれてそれぞれの友人を相手したりするけど、二人はいつもくっついているよな」
「え、そうかな」
「そうかしら」
「いや、別に悪いわけじゃないんだ。それだけ仲がいいんだなぁ、と思って」
「……」
友人に悪意がないのは分かっている。
しかし、「いつもくっついているよな」という言葉が、夫婦の中で渦を巻き、大きくなっていくのだった。
***
翌朝、シャイング家の邸宅。レノアとマティウスは真剣な面持ちで、リビングのテーブルで向き合っていた。
「このままじゃよくないと思うの」
レノアが切り出す。
「君もそう思うか」
マティウスも同意する。
「ええ、私たちは一緒にいすぎている。いわばお互いに依存し合っている状態よ。これではとても一人前の貴族とはいえないわ」
「よく言ってくれた。さすが我が妻レノアだ」
「ありがとう、あなた……」
二人は恍惚とした表情で見つめ合う。が、すぐに我に返る。
「だからこれがよくないのよ! 隙があるとすぐくっつこうとしてしまう!」
「その通りだ。だから我々は一度距離を置く必要があるね」
「ええ、今日から“家庭内別居”をしましょう!」
そうと決まると、二人はさっそく一人のメイドを呼んだ。
アニス・エーネ。長い黒髪と凛とした顔立ちを持ち、夫婦からの信頼も厚い若きメイドである。
レノアは経緯を一通り説明する。
「というわけなの。アニス、見届け人になってくれる?」
「分かりました。お二人は本日から家庭内別居をするということで、よろしいですね」
「ちょうどこの屋敷は区画が東と西で綺麗に分かれている。書斎がある東側には私が住み、寝室がある西側にはレノアが住むことにしよう。私のベッドはもちろん、書斎に移す」
「そして、よほど重要な用がない限り、お互いに会いに行くのは禁止ということでいいわね」
夫婦の間でルールが決まり、アニスは見届け人としてうなずく。
「では私は玄関やキッチンのある屋敷の中央部分におりますので、何かあれば私に声をかけて下さい」
二人はそれぞれの部屋に向かい、“家庭内別居”が幕を開けた。
***
家庭内別居開始からおよそ10分、レノアが夫のいる東の区画に向かう。
アニスが呼び止める。
「どうしました、奥様? 今は家庭内別居中では……」
「重要な用ができてしまったの」
「重要な用とは?」
「美味しいビスケットをもらっていたから、あの人にもあげようと思って」
「……」
今度はマティウスが妻のいる西の区画に歩いていく。
アニスが尋ねる。
「旦那様、奥様になんのご用ですか?」
「本を読んでいたら、意味の分からない単語があってね。レノアに聞こうと思って」
「……」
こんな具合に二人は頻繁に互いの区画を行き来する。
ついに、アニスが二人を呼び止めた。
「お二人とも」
静かな口調だが、声にはほのかに怒りがにじみ出ている。
呼び止められた二人はギクリとする。
「いい加減にして下さい。あなた方は“家庭内別居”をナメてらっしゃるんですか?」
「すみません……」夫婦の声が揃う。別居になっていない自覚はあったようだ。
「お二人が別居をするかしないかは自由です。しかし、もしやるのであれば徹底的にやらないと意味がないと思います」
マティウスはうつむいて反省する。
「そうだな、その通りだ……こんなに頻繁に会っていては家庭内別居とはとても言えない……」
「そうね……」
レノアもうなずく。
「今度こそしっかり家庭内別居しよう! 絶対に会わない! もちろん食事も別々だ!」
「分かったわ!」
瞳を熱く燃やして別居を誓う二人を、アニスは表情を変えずに眺めていた。
その内心たるやいかに。
***
レノアとマティウスの本格的な別居生活がスタートした。
今度は二人とも何か用を見つけては夫や妻に会いに行くということはしなかった。
一時間、二時間と経ち、アニスも「今度は本気のようですね」と二人に感心する。
夜になり、食事も別々とのことなので、アニスは二人の部屋に食事を運ぶ。
夕食を作るのは専属の料理人。今日のメニューは香ばしく焼かれたローストビーフをメインに、サラダやスープがそれを彩る。
いつもの二人ならば笑顔で頬張るところだが、様子がおかしい。
レノアがアニスに尋ねる。
「ねえこれ、いつもと違う人が作ってるってことはないわよね?」
「もちろんです。なぜ、そんなことを?」
「全然味がしないのよ……」
彼女の味覚には異変が起こっていた。
これは夫マティウスも同様だった。
「このローストビーフ、味が薄い……というより、味がしない……」
二人ともどうにか全て平らげたが、そこにいつもの笑顔はなく、「出された物をどうにか胃袋に収めた」という風情であった。
アニスは別居生活が早くも二人の体に異変をもたらしているのでは、と不安を覚えた。
***
翌日、夫婦は相変わらず一目も会うことなく生活を続けている。
レノアは籐の椅子に腰かけ、自室で編み物をしていた。
彼女の腕前はプロ級といってよく、サロンなどで他の貴婦人にマフラーやセーターをプレゼントすると、大好評となる。「お金を払うから私にセーターを作って」と頼まれたことすらある。
しかし、今日の彼女の手つきはおかしい。
「うう、ううう……」
唸り声を上げながら、編み物をしている。
様子を見に来たアニスはぎょっとする。
「奥様……何を作ってらっしゃるのですか?」
「分からない……分からないのよ……」
レノアの手元には“毛糸でできた正体不明の何か”としか形容できないものがどんどん出来上がりつつあった。
一方のマティウスも同じようなことが起こっていた。
書類に万年筆を走らせているが、どうにも調子が出ない。
「……ダメだ!」
紙を丸める。
「どうなされました?」とアニス。
「今度、陛下に法案を上奏することになっていて、その書状を書いているんだが、上手く書けないんだ……!」
彼もまた仕事になっていない。
まもなく二人はさらなる変調をきたす。
レノアは自室をうろつき、ぶつぶつと独り言を言っている。
「あなた……どこなの、あなた……」
マティウスは人差し指で机をタンタンと鳴らし続ける。
「足りない……レノアが足りない……」
アニスもこんな二人を見るのは初めてである。
これまでも夫婦は四六時中一緒にいたわけではなく、どちらかの都合で二、三日程度なら離れて過ごしたことはあった。
しかし、今回のように「同じ屋敷にいるにもかかわらず、お互いの意志で会わないことに決めた」というのは初めてだった。
それがこのような異変をもたらしているのかもしれない。
昨日は二人を「家庭内別居をナメるな」と叱責したアニスだが、さすがに心配になってくる。日常生活や仕事に支障をきたすようでは続ける意味がない。
二人にこう提案する。
「もう家庭内別居はやめた方がよろしいのでは……」
だが、二人とも首を横に振る。
「ダメよ! 今こそ私が一人前になるチャンスなの!」
「今こそレノアがいないという状況を克服するんだ……!」
決心は固かった。
二人ともうめき声を上げ、禁断症状に苦しみながらも、どうにか愛する人との別居を耐えるのだった。
***
次の日、家庭内別居を始めてから三日目。
早朝からレノアは爽やかな笑みを浮かべていた。窓から差し込む朝日が、その美しさを引き立てる。
アニスに向かってこう宣言する。
「克服したわ……。私はもう、あの人がいなくても大丈夫」
朝食を美味しそうに済ませ、優雅な仕草で紅茶を飲む。
編み物をしても、瞬く間に小物を一つ作ってしまうほどの鮮やかさ。
昨日までとはまるで別人だとアニスは息を呑んだ。
妻がこうなったのであれば、やはり夫も同じだった。
「私にはもうレノアがいなくても問題ない」
目を細め微笑を浮かべ、悟りを開いたような雰囲気のマティウス。
あれだけ手こずった上奏文もあっさり仕上げてしまう。内容は完璧といってよかった。
「どうやら私は一つ上のステージに進めたようだ」
家庭内別居を経て、夫婦は“高み”に達した。
二人を見て、アニスはそれぞれに提案する。
「では、そろそろ別居状態を解除し、お会いしますか?」
二人は余裕の表情で答える。
「そうね。もう彼に何も感じないだろうけど」
「まあ、会ってやるのもいいか。私はともかく、レノアは寂しがっているだろうし」
伴侶不在を克服したどころか、愛すら雲散してしまったと思わせる二人の答え。
屋敷の中央にて、昨日は丸一日会っていないので、二人は二日ぶりの再会を果たす。
二人はお互いの姿を目に入れると――
「マティウス!!!」
「レノア!!!」
猛スピードでレノアが駆け寄り、マティウスはそれを受け止める。
「会いたかった!!!!!」
そのままくるくると何回転もし、力強く抱きしめ合う。
先ほどまでの悟ったような表情はどこへいったのか、歓喜に満ちた満面の笑みである。
「もう私は……君を離さない!」
「私ももう……あなたから離れない!」
お互いの肌、肉、骨、体温を存分に感じ合う。まさに至福の瞬間。
やがて、レノアがマティウスを見上げて、歌うように言う。
「再会を祝して踊りましょう!」
「そうだね! 出会ったあの時のように!」
二人は手を取り合い、屋敷内のスペースを存分に使って、踊り始めた。
そんな二人を見つめながら、アニスはぽつりと漏らした。
「一生踊ってて下さい」
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。