夜に落ちる【後】
「最近本当にお忙しいご様子ですね」
「まあそうかな」
「……ハイドランド絡み?」
「そんなことは……って、君に隠したところで無駄だな。ドムスクスのほうにも言えることだが、勝とうが負けようが戦争はその後のほうが遥かに厄介だ」
ナイトテーブルに灯された柔らかいオイルランプの光の中、寝台に寝転がって、フェルドリックは琥珀製のオテレットの駒を弄ぶ。
「……兄を支えようとしてくださっていると伺いました」
「カザックの戦略的にそれが正しいからね」
大理石のボードの向こうでは、両膝を曲げて座ったソフィーナが視線を伏せ、配置された駒を見つめていた。その顔を盗み見る。
(変わらない……いや、少し大人びた……)
幼さは抜けてきた気がするが、彼女の真剣な顔は凛としていて、いつ見ても美しい。あの綺麗な青灰の目がこっちを向いていないのは少し寂しいが。
「その、私にできることがあれば、仰ってください」
そう思っているのが伝わったかのように、ソフィーナが顔を上げた。目が合って心臓が跳ねる。
「兄やハイドランドのことに限らず、なんでも……精一杯お手伝いします」
(……ああ、そうか、ハイドランドのことで手を煩わせていると責任を感じていたのか)
次の一手に悩んでいた訳ではなかったようだ。思いつめたように言われて、真面目さやお人好しぶりにこそ変化はないらしい、とフェルドリックは呆れを覚える。
カザックの太子妃として期待される以上の振る舞いをしているのだから、自分の祖国を尊重するのは当たり前という態度でもまったくかまわないのに。
「当然」
「……はい?」
「優秀な君を遊ばせておく手はない。遠慮なくこき使わせてもらう」
にこっと笑って言い切れば、ソフィーナは顔を引きつらせた。
中々間抜けな表情だが、それすらもかわいいと感じてしまうことに気づいて、フェルドリックはもう何度目かわからない自嘲を覚える。
「ということだから、明日の朝、執務室に来て。フォースンが休みなんだ」
「ひ、人の善意を逆手に取ります……?」
「感謝はしてあげるよ? 期待もしている、明日はいつになく仕事がはかどるはずだって」
「……性格、悪……」
「ご理解どうも」
口をへの字に曲げて「しかも開き直ってるし」と呻くソフィーナに、フェルドリックはくつくつと笑いを零した。
会話は止まった。だが、ソフィーナ相手の場合は不思議と居心地がいい。
石と石がかち合う微かな音が薄暗い室内に響く。風が強まったのか、時折部屋の窓がカタカタと音を立てた。
どれぐらい時間が経ったのか、寝室に漂う薄闇と橙色を帯びた頼りない灯火の明かりに眠気が誘い出されてきた。現と夢の境で、普段抑えているものが頭をもたげ始める。
(……結構外に出ているはずなのに、あまり日焼けしないな)
惹かれるまま、ゲームに集中する目の前の彼女を見つめた。
下ろした髪が灯火の炎を反射して光っている。整えられた眉には意思の強さが感じられ、高くも低くもない鼻と丸顔には微妙に幼さが残る。だが、その下の唇は年頃の女性らしく、健康的に艶めいていた。
(……触り心地、いいんだよな)
薄桃色の頬にふと手が引き寄せられた。ソフィーナが目を見開く。
指で感触、そして彼女の存在を確かめるように撫でれば、同じ場所が徐々に色づいていく。
「あの……フェルドリック、の番です……」
潤みを帯びた青灰の瞳に見上げられて、逆の手でその身を抱き寄せた。間にあったゲームの駒たちが倒れ、微かな音を立てる。
温かくやわらかな身を腕の檻に閉じ込める。
頬を包み込む手の親指で淡く光る唇をなぞった後、自らの唇を重ねた。その手を彼女の頭部に回し、髪を繰り返し梳く。
(大丈夫、嫌われていない……)
角度を変えて、何度も口づけを落とした。合間に瞳を見つめては、拒絶の色がないことを確かめて安堵する。ますます彼女に嵌っていく。
「ソフィ」
「……フェ、ルドリック」
鼻先の触れ合う距離で、込み上げてくる愛しさのままその名を呼んだ。目元を赤く染めた彼女が喘ぐようにフェルドリックを呼び返してくれる。
その吐息を唇で感じた瞬間、体の芯で何かが生まれた。
自分の胸の中に彼女がいる、体温が伝わってくる――最初些細だった『何か』が急速に熱を帯び、広がっていく。痺れるような感覚に全身が包まれた。
マエトハチガウ……――。
愛していますといういつかの彼女の声が脳内に響くなり、右手が動いた。髪の間に指を差し込み、後頭部を緩く拘束する。彼女の腰に回したほうの手を、自分へと強く寄せる。
「? フェルド……」
疑問を紡ごうと開いたあどけなさの残る唇を、再度唇でふさいだ。
啄みを幾度となく繰り返し、思考を麻痺させたまま、舌を彼女へと侵入させる。
「っ」
刹那、腕の中の体が固くなり、胸に手があたった。音を立ててソフィーナの身が離れる。
(――……やらかした)
一気に眠気が失せて、フェルドリックは蒼褪めた。あの時もこんな夜だった。
『あなたとは、その、つまり、夫婦の関係にはならないでいたい』
結婚初夜、揺らぐランプの光の中で緊張と共に彼女が告げてきた言葉が蘇って、内心で滝のような汗を流す。
視線の先、ソフィーナが赤い顔で身を縮め、驚きに怯えを混ぜた目をしている。
「……あ、え、ええと、その……」
しばらく見つめ合ううちに、彼女が泣きそうな顔をして視線を揺らした。その瞬間、強い後悔が湧き上がった。
彼女を困らせたくない、怯えさせたくない、そんな顔をさせたくない――。
「冗談」
「…………え?」
フェルドリックは全力で表情と声を作り上げ、くすっと笑った。
「いや、どんな反応をするか見てみたくて。いつも冷静な君の焦り顔とか滅多に見られないし」
意図的に緩めた口元に手をあて、彼女から顔を背け気味にすると、「ごめん、想像以上に面白かった」と言いながら、声と身を震わせた。
そうして笑いを堪えているように見せかければ、成功したらしい。呆然としていた彼女の顔がだんだん険しくなっていく。
「つ、まり……からかった……?」
「悪い」
そう言いながら噴き出してみれば、彼女は真っ赤な顔で唇を引き結ぶ。
涙目でフェルドリックを睨んでぷいっとそっぽを向くと、寝台の上で両膝を抱えて丸くなった。
「悪かった、もうしないから」
笑いを含ませた声をその背にかけ、フェルドリックは内心の緊張を悟られないよう静かに息を吐き出して気を落ち着けた。
「悪いと思っている人の態度ではないです」
拗ねた声を聞いてほっとする。怒ってはいるようだが、嫌悪はない。
心外そうに「ちゃんと反省してるのに」と反論した後、再度深呼吸して、背後から彼女の二の腕に触れる。
(完全に怯えさせた)
彼女が再び硬直するのが分かって、ぎしりと胸が軋んだ。即座にその手をどかす。だが、離れ切る前に、彼女の手に上から抑えられた。
思わず目をみはった。髪の間からのぞく耳朶は深紅に染まっている。
「……」
手のひらから伝わってくる体温に一瞬気管が震えた。
「もうからかわないから……おいで、ソフィ」
返事がないことを肯定と受け止め、祈るような気持ちで、可能な限りゆっくり抱き寄せる。抵抗がないことにまた一つ安堵する。
小さな体を背後からそっと包み込めば、胸の中の彼女もほっとしたように息を吐いた。
体から緊張が抜けていくのを感じて、複雑な気分になってくる。
体の前面に感じるやわらかな感触と、鼻腔に届く甘い香りに、また体の芯が疼き始める。
だが、全力で意識を逸らした。さっきみたいな顔をさせるのはごめんだ。
無言のまま彼女の肩口に顔を落とし、瞼を閉じた。
彼女の呼吸の音がさらに鮮明になって、愛しさが募っていく。
二人とも口を噤んだせいか、窓の外から梟の鳴き声がぼんやりと聞こえてきた。
風はいつの間にか止んだようだ。
「……フェルドリック? もう寝ました……?」
「まだ。でも眠くなってはきた」
「……人で遊んでいないで素直に寝ればいいのに」
腕の中から囁き声が聞こえた。応じれば、むくれ声が返ってくる。
前に回した両腕が彼女の腕に抱え込まれた。温かみが広がっていく。彼女の四指が一定のリズムでそこを優しく叩き始める。
「風のしらべが 星にとけ
月のかけらが 舞い降りる」
やがて柔らかい歌声が響いてきた。
(……ハイドランドの子守唄か……)
かつてメリーベルが彼女に聞かせたのだろうか……?
「銀の羽根が 闇に舞い
小さき影が 夢うたう
おやすみ 愛しき光の子……」
腕の中から感じる体温と甘やかすような歌声に誘われて、ゆるゆると眠りの淵に落ちていく。
「お、やすみ、ソフィ……」
「おやすみなさい、フェルドリック……」
意識が途切れ途切れになる中、フェルドリックはソフィーナの感触を頼りに、彼女のすべてを望もうとする欲望に釘を打ち込む。
怯えさせたくない、傷つけたくない、どうしても失えない。
何より……――この人の顔から微笑が消える瞬間をもう二度と見たくない。
本作の第三巻が、2月25日にKADOKAWAメディアワークス文庫さまから刊行されました。
【KADOKAWA公式ページ】
https://www.kadokawa.co.jp/product/322410000037/
(イラスト:斬さま)
第三巻は今回の番外編のあと――それぞれの中に秘めた変化はあるものの、二人の関係としては進んでいない、今の状態からのスタートになります。
舞台は、web版フェルドリック視点や第一巻に名前だけ出ていた隣国カルポ王国の山間部、某公爵家の領地。
助けを望む、公爵家兄妹の妹の思い込みによって攫われ、公爵家をめぐる政争に巻き込まれたソフィーナ。
カザックに帰るに帰れない中、保護してくれた兄公爵から、結婚を申し込もうとするぐらい憧れていたと聞かされて困惑するソフィーナを、「それ、やっちゃダメなやつ…!」と彼女やアレックスが蒼褪めるやり方で、フェルドリックが救出を計って……というもの。
関係が膠着する中、ソフィーナに執着する公爵を前にしたフェルドリックの悪質さにソフィーナが思わず呻いちゃったり、その公爵をしれっと躱して(←やっぱり悪質)、フェルドリックが異国の地でのあれこれにソフィーナを誘い出してみたり、二人のそれぞれに好意を寄せる人の存在に互いに嫉妬してみたり、相手の『意外』を発見したり……などの諸々を経て、二人がどう変わっていくかという話になっているかと。
それはそれで楽しそうじゃない?と思われたら、お手に取っていただければ、最高に嬉しい!です。







