嫌悪
帰すか帰さないか――あの偉大なメリーベルの加護かもしれない、その時はすぐにやってきた。
「シャダから外交使節団が来ることになった」
シャダの表向きの目的は国交の正常化交渉、だがその実はソフィーナの排除だ。これまで裏で手を回してきていたが失敗が続き、ついに痺れを切らしたのだろう。
シャダはなんとかという王女を使って、カザック太子の正妃という立場をハイドランド王女であるソフィーナから奪い、両国の結びつきを弱めると同時に、あわよくばカザックでの影響を拡大しようと画策している。あの国の馬鹿な王が考えそうなことだった。
フェルドリックの予想通り、ソフィーナもそんなシャダの意図を瞬時に読み取った。
「最初に申し上げた通りです――たとえそれがシャダの姫であっても」
そして、これも悲しいぐらい予想通りだった。シャダの姫がフェルドリックに取り入ろうとしていると気付いてなお、彼女は欠片も気にしない。愛人でも何でも好きにしろという主張に何も変わりはないと平静に言い放った。
「……本音を隠すのが上手くなったね」
「私はいつでも正直です。どなたかとは違います」
否定してくれないかと食い下がってみたが、それにも敗れ、自嘲をこぼすフェルドリックの前で、ソフィーナはハイドランドの心配を始める――そちらが彼女の場所だと、如実にわかる物言いで。
「そんなに大事? 君はカザック王国王太子妃なのだけれど、名目上はね」
もう十分だ、帰ってかまわない。そう言うつもりで開いた口からは、帰したくないという本音が、皮肉に姿を変えて出てくる。
「ええ、そういう契約ですから、もちろんこの国の不利になることはいたしません」
契約という言葉に胸が軋んだ。自業自得だろ、と思う一方で、心の奥底から暗い何かが這い出てきた。
(ああ、そうだ、契約だ。なら……)
カエサナクテイイ、“ケイヤク”デシバッテシマエ――
「……」
気づいた時には勝手に体が動いて、彼女を腕の中に閉じ込めていた。
フェルドリック自身動揺したが、ソフィーナが抱きしめられてくれたことにわずかながら希望が差す。
好かれていないにしても、嫌われてはいないのではないかと思いたかった。そして、フェルドリックの妻にさせられたことも、そこまで厭うていないと言ってほしかった。
「っ、よく、なんか、ないっ、王女なんかに生まれなきゃ、私でも幸せに結婚したもの……っ」
もちろんというべきだろう、そんな都合のいい結末は待っていなかったのだが――。
* * *
「……また徹夜ですか?」
「見た通り、寝てただろ」
「ソファで仮眠をとるだけというのは、徹夜と言って差し支えないと思いますけどね」
執務室に入ってきたフォースンを前に、フェルドリックはソファから身を起こすと、伸びをする。
「で、用件は?」
「シャダのジェイゥリット殿下から茶会の招待です」
朝っぱらから気持ちの悪いものを想像する羽目になったフェルドリックは、嫌気を表情に出す。おそらく目の前のフォースンと同じ顔をしていることだろう。
「仕事を口実に断ってくれ。そうだな、代わりに見てくれだけ立派な宝石でもくれてやれ」
「できるだけ悪趣味なものを選びます」
真顔で言うフォースンに、「それこそがあの醜女の趣味だ」と笑って、欠伸を零した。
「あれが一国を代表する王女とは世も末だ」
「しかもかの国のご自慢の姫君らしいですからねえ」
「シャダがどうしようもない国だという証明そのものだな。飾りとはいえ、外交使節団の長を名乗っておきながら、停戦と終戦の違いが分かっていないんだぞ? 笑わせに来ているのかと。国民を餓死させておきながら恥ずかしげもなく着飾ってはばからない神経と言い、神賛歌や古語どころか創世紀や自国の歴史すら怪しい教養と言い、それでいてソフィーナや君に偉そうにする馬鹿さ加減と言い、王族どころか人間を名乗るなというレベルだ」
悪態をつくフェルドリックに、フォースンは苦笑を零す。
「はいはい、シャダの油断を誘いつつ、旧王権派を一掃する機会ですから、我慢してくださいね。ハイドランドのほうにもちょっかいをかけているようですから、なおさら」
「わかっている」
(国のため、人のため、この世で最も軽蔑するタイプの人もどきに付きまとわれて、それに笑いかけて、そのくせ内心で罵って――やはり道化そのものだな)
心の中にまた暗い染みが広がっていく。最近、そんな時はいつも青灰の瞳が浮かび上がってくる。
同じ立場で、同じように色々のみ込んで生きてきたはずなのに、なぜ彼女は自分のように淀まないのだろう、なぜあれほど綺麗でいられるのだろう。
(もう何日まともに見てないんだったか……)
あの晩、いらだちと衝動に任せて、気づいたらソフィーナの唇に触れていた。その後、彼女が見せた表情が、頭にこびりついて離れない。
「……」
フェルドリックは苦痛に顔を歪めると、意識もせずに左手の甲を自らの口元に押し当て、その拳をぎゅっと握った。
「……ソフィーナの警護状況は」
「ご指示通りに強化を」
「不便や不安は感じていないか」
「さあ、そこまでは。ご本人にお聞きになってはいかがですか」
「…………愚問だった。フィルとヘンリックが一緒なんだ、緊張感なんか持てるわけない」
(そもそも不便や不安、不快の原因は僕だし、話したくもないだろう……)
フォースンの眼鏡越しの黒い視線から咄嗟に逃れると、ソファから降り、執務机へと向かった。探るように見られていることに気づきながら、フェルドリックはもう一度欠伸をして見せる。
「あー、その、今晩あたりご機嫌伺いに行かれては、という意味だったのですが」
「悠長だな。シャダはハイドランド王やセルシウスにまで手を伸ばす気では、という報告が上がってきている。王はどうでもいいが、セルシウスに危害を加えられてはまずい。陛下からも目を離すな、と厳命があった」
「げ、北が一気に不安定化するじゃないですか……。けど、その情報の信ぴょう性は? シャダ王もあの国情でそんなところにまで手を広げるほど愚かでは」
「ないと思うか?」
「…………微妙」
「だろう。早急に情報を集めて、必要なら対策を打つ必要がある」
珍しく食い下がってきたフォースンを、政情にかこつけて何でもないことのようにかわした。
(ここにいれば、仕事が忙しいからと言い訳がつく)
フェルドリックはあれからほとんどソフィーナの部屋を訪れていない。シャダやそれに与する者たちに、フェルドリックの興味がソフィーナにないと見せるためという目的もあったが、それ以上に今彼女を視界に入れたくなかった。
帰してやらなくてはいけない、手放さなくてはいけないとわかっているのに、顔を見たらできないということ、そしてまた傷つけるということを嫌というほど実感してしまったから。
「ですが、その、余計なことかもしれませんが、ちゃんとお話しになってはいかがかと。お2人とも言葉が足りていないように思います」
「……」
ため息をついたフォースンのしつこさにうんざりしつつ、フェルドリックは執務机前の椅子に腰かけ、山積みの書類に手を伸ばす。
「シャダのクズ姫に訪いを入れていると誤解されてもいいんですか。面白おかしく噂に興じる者が出てきていますよ、いつもの暇な馬鹿どもですが」
「あんな阿呆に惚れる人間は、同レベルの阿呆だけだ。まともな人間ならみんな知っている」
「い、や、それがわからなくなる不思議現象が、どれだけ聡明な人間にも時々起きるというか……ですので、その、ソフィーナさまであっても信じる可能性がなくはないかと」
「あー、ないな。その辺どうでもいいそうだ」
茶化して軽く見せておきながら、自分で口にした言葉が耳に入るなり、胸が軋んだ。
逃げるように窓の外へと視線を向けて、息を止める。
「……」
ソフィーナがいる。いつものようにアンナと護衛の2人が一緒だ。
とことんタイミングが悪い、と思うのも確かなのに、久しぶりに姿を見られたことで、心が浮き立ってしまう。これほど離れているのに、彼女だとわかってしまうことも手伝って、苛つきが増す。
(――笑った)
フィルに対してか、ヘンリックに対してか、ソフィーナが遠目にわかるほどの笑顔を見せた。
「……」
フェルドリックはぐっと眉根を寄せた。
ソフィーナを笑顔にしてくれていることを真剣に感謝する一方で、どうしようもなく彼らがうらやましい。彼女を笑わせられる、彼女の笑顔を見られる。
フェルドリックの顔が憎悪に染まっていく。
(自分は泣かせることしかできない。なのに、嫉妬する? 縛り付ける? ――最悪にもほどがある)
幼いソフィーナに出会って以来、ここ何年も忘れていた感情――自分という人間への殺意に似たどす黒いものに全身を蝕まれていく。
(彼女の言う通りだ、僕と一緒にいたって絶対幸せになれない)
フェルドリックは視線を無理やりソフィーナたちから逸らすと、息を吐き出した。
フェルドリック自身、自分のことがこれほど嫌いなのだ、当たり前じゃないか、そう再確認して、薄笑いを零す。
「それより財務と外務、両大臣を呼んでくれ」
そして、こちらの様子をうかがっているフォースンに向け、丁寧に仮面をつけ直した。
第15話とその後です。







