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書籍化・コミカライズ作品

【書籍化】閨の教師は兄の妻

作者: 月夜野繭



「今夜からおまえに閨事(ねやごと)の指南役をつける」


 閨事の指南――つまり性行為の方法を教える年上の女性を、一族の成人したばかりの若い男子につける。

 古ぼけた書斎で父がそんな大昔の慣習を持ち出してきたのは、従軍していた兄が退役して帰国し、数か月経ってからのことだった。


「閨、の指南ですか。しかし、私は……」


 ロベルトは当然、父親に抗弁した。

 彼ももう二十三歳、ずいぶん前に成人しているし、とっくに童貞も卒業している。

 今さら閨事の指南とはどういう思惑があるのか、まったく冗談の気配のない父の眉間の(しわ)に、ロベルトの中に嫌な予感が芽生えた。まあ、もともと冗談を言うような砕けたところは微塵(みじん)もない父親ではあるが。


「おまえに経験があろうがなかろうが関係ない。これはオルランディ家の家長である私の命令だ」

「そうですか」


 オルランディ家は代々武勲を上げ、騎士爵を拝命してきた武の一族だ。

 確かに軍人の家系ではあるが、そもそも騎士爵は世襲されない一代限りの準貴族。子孫には受け継がれないので、爵位を得るには自分で手柄を上げなければならない。個々人の努力と運は凄いけれど、家柄としては大したものではないとロベルトは常々思っている。


「おまえもそろそろ身を固める年齢だ。その前に、家の恥が表沙汰にならぬようにせねばならない」

「家の恥とは? 私の色事の話ではなさそうですね」


 できるだけ皮肉っぽく見えるように、唇の端を歪めた。ややだらしなく着崩した騎士服の首もとの(ボタン)を一つ開けると、襟足にかかった黒褐色の髪を指で弾く。

 ロベルトはくだらない名誉にこだわる父も、武人としての才能に恵まれた傲慢(ごうまん)な兄も、ちっぽけな称号にしがみつくこの一族も、あまり好きではない。


 年季の入った書斎机の椅子に深く腰かけて、父は無言のまま厳しい目でロベルトを()めつけた。

 黒い瞳の色は親子でよく似ているが、柔らかい雰囲気のあるロベルトとは視線の強さがまったく違う。秘め事の話でありながら、浮ついた空気はまったくない。まるで軍務の指令を受ける時のようだった。


「…………」


 この険しい顔をした王国騎士団の元大隊長殿は、詳しい事情を話すつもりはまるでないらしい。ロベルトは軽くため息を吐いた。


「相手は誰です?」

「…………」

「父上のご指示に逆らうつもりはありません。ただ、今夜床をともにする女性の名くらい知っておきたいのですが」

「……フィオリーナだ」

「は……?」


 一瞬、虚を()かれた。この男は今、なんと言った?


「間違っていたら申し訳ありません。……フィオリーナとは……もしかしたら、義姉(あね)(うえ)のことでしょうか? 兄の妻の」

「……間違いではない。その女のことだ」

「しかし……。父上、正気ですか」


 最近とみに白髪の増えた老年の男は射殺さんばかりの鋭い視線でロベルトを貫き、反論の言葉を封じた。そして、地を這うような低い声で、若い次男に驚くべき命令を発したのだった。


「閨教育の期間は、フィオリーナが妊娠するまでとする」






 長く続いた獣人国との戦争が終わり、兄のベニートが帰ってきたのが三、四か月前のこと。


 三年前に結婚してすぐ出征した兄は、まだ二十八歳。レスルーラ王国騎士団の花形、重騎兵部隊に所属していた彼は終戦後の前途も嘱望(しょくぼう)されていたが、前線で右脚に大怪我を負い、そのまま退役を余儀なくされた。

 ちなみにロベルトも騎士ではあるが、後方支援部隊に属しているため一族が望むような華やかな戦歴とは無縁だ。


 三年間、ベニートを待っていた妻のフィオリーナは今、二十六歳。ロベルトよりも三歳上のカランドレッリ子爵家の一人娘だ。名前だけの貧しい底辺貴族だが、令嬢としての作法はひととおり学んでおり、所作の美しい優雅で控えめな女性だった。


 そのフィオリーナの長い亜麻色の髪が、目の前で乱されている。薄い水色の瞳から、透明な涙がひとすじ頬を伝った。


「ベニート様、どうかお許しください。ロベルト様の前でこんな……」

「ならぬ。当主の命だ。……脚を開け」


 立ち尽くすロベルトの目の前で――一人がけのソファーにフィオリーナを抱えて座り、背後からその体にふれているのは、ベニート・オルランディ・カランドレッリ。


 一人娘の婿を決める前にカランドレッリ子爵夫妻が亡くなり、頼りになる親戚もなく困窮していたフィオリーナは、借金を肩代わりすることを条件にベニートを婿に迎えた。フィオリーナの生活の安定と引き換えに、オルランディ家は念願の爵位を得たのである。


「フィオリーナ、私の言うことが聞けないのか」


 脚を怪我して引きずるようになったとはいえ、重騎兵だった男だ。腕の力だけでベニートは軽々と、膝の上のフィオリーナの体をひっくり返した。青い上品なドレスのスカートをめくり上げ、大きな手でその尻を叩く。


「ひっ、やめて、おやめになって」


 パーンパーンと、何度も高い音が響く。

 悪戯(いたずら)をして尻を打ち据えられる子供のような格好の義姉を、ロベルトは呆然と見ていた。


 これも父の命令だ、仕方ないとあきらめ、夜になってからフィオリーナにあてがわれた客室を訪ねたら、そこにはすでに膝に彼女を座らせた兄がいたのだ。


 義弟の閨教育をせよとの下知だけでも論外だが、こんな状況は有り得ない。

 酷い。酷すぎる。父も兄も異常だ。

 どんな事情があるにせよ、さすがに許せないことだと内心憤りながらも――ロベルトはいつの間にか興奮していた。


「これからおまえは私の弟に抱かれるのだ。はしたない女め」

「いや、あっ、あぁぁっ」


 しかし、そんな扇情的な姿の妻を抱きかかえながらも、ベニート自身はぴくりとも反応していなかった。


「ロベルト様、お願い、見ないで……」


 か細い声で義理の弟に懇願する、可憐な子爵夫人。ベニートは大声で笑った。


「ははは、よかったな、フィオリーナ。ロベルトももう準備はできているようだぞ」


 ロベルトを(くら)い憎悪の目で見つめるベニート。背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。


「……兄上、私は……」


 戦争から帰ってきたら、兄は不能になっていた。


 その身に重傷を負ったせいなのか、心因性のものなのかはわからないらしい。秘密裏に医師を呼び高価な薬を服用しても効果はなかったと、父の腹心の家宰からあとで説明を受けた。


 それでも、名誉の負傷をし叙勲(じょくん)した兄を子爵の位から外すわけにはいかない。養子を取ることもできない。オルランディ家の沽券(こけん)にかかわるからだ。


「……義姉上、申し訳ありません」

「だめ、それだけはだめ」


 ロベルトは一歩前に出て、フィオリーナに近づく。

 力のない拒絶に、ロベルトの心中の罪の意識がふくれ上がる。そして、それよりも大きな背徳感が脳髄(のうずい)を真っ赤に染めた。


 ベニートがフィオリーナを改めて自分の股の間に座らせる。


 ――義姉上。


 義姉上……義姉(ねえ)さん……。


 ……フィオリーナ……、ああ、フィオリーナ!


 ひそやかに憧れていた、義理の姉。

 ロベルトは心の痛みに胸を震わせながら、快楽に溺れた。


 すべては、子をなすため。オルランディの血を引く子孫を残すため。その崇高な目的を果たさなければならない。


 義姉が子を(はら)むまでの、刹那の夫として――。






「フィオリーナ嬢?」


 ――三年前。

 二十歳になったばかりのロベルトは、緊急出動命令で留守にしている兄の代わりに、その妻となるひとを出迎えるため帰路を急いでいた。


 自分もまた急に仕事が立てこみ、約束の時間に遅れてしまいそうだ。母がいれば任せられたのだが、ロベルトとベニートの母は早くに亡くなり、父は後妻を(めと)らなかった。


 慌てて帰宅すると、客人が待っているはずの応接室に人影がない。

 周囲を見まわし中庭に通じる大窓が開いていることに気づいた。窓のすぐ外に、明るい亜麻色の髪が見える。

 彼女はまだ(つぼみ)もついていない薔薇(ばら)の茂みを見ているようだった。


「まだ薔薇の季節には早いでしょう」


 声をかけると、フィオリーナは驚いたように目を瞬かせた。


「ロベルト様、勝手に外に出てしまって申し訳ございません。もう撫子(なでしこ)が咲いていましたの。ほら」


 フィオリーナが指差す薔薇の緑の葉の下を見ると、淡い色の小さな花がレースのような花弁を揺らしていた。


「撫子……これが撫子というのですね。まるであなたのように愛らしい花だ」

「まあ、ロベルト様、そんなわたくしなんて……」

「いえ、あなたは美しいですよ。薔薇のような派手な主張はないが、この撫子のように優しく可憐で慎ましやかだ」


 何気なく言った言葉に、兄の婚約者は真っ赤になってしまった。


 ……本当に愛らしい。まるで野の花のようだと思った。

 こんなに恥ずかしがって……。兄は普段、この可愛いひとに愛の言葉をかけないのだろうか。貴族の間ではもう行き遅れと言われるような年齢だと聞いたが、とてもそうは思えないこの初々しさを愛でることはないのだろうか。


 ――私ならこのひとをもっと愛して、大切にして、美しい花を咲かせてみせるのに。


 そんなふうに思ってしまったら、もう駄目だった。

 控えめに微笑まれるだけで胸がときめく。穏やかな声を聞くと、抱きしめたくなった。

 それがロベルトの秘めた恋のはじまりだった。


 兄のベニートとフィオリーナは華やかな結婚式はせず、ひっそりと神殿で結婚の誓いを立てる予定だったが、それでも貴族のしきたりは多く、オルランディ家でも頻繁に打ち合わせをしなければならない。

 兄は面倒くさがって、何やかやとロベルトに話し合いを押しつけようとする。文官のするような仕事も苦手ではないロベルトはこれまで特に感慨もなくこなしてきたが、次第にそれが苦痛になっていった。


 この女性は、兄の妻になるひと。

 どんなに愛しく想っても、決して自分のものにはならないのだ……。


 結婚の日が近づき、ついにベニートの出征も決定した。暗い表情のフィオリーナの関心を引きたくて、子供のように主張する。


「兄より頼りないかもしれませんが、こう見えて私も騎士です。少しあとになりますが、私も獣人国との戦に赴くことになりました」

「まあ……ロベルト様も……。さみしくなりますわ。どうぞくれぐれもお気をつけて」


 フィオリーナは心から心配そうに顔色を曇らせた。

 ロベルトはそれで満足したのだが、その後フィオリーナが幸運の象徴である鍵の柄を自ら刺繍した手巾(ハンカチ)をこっそりと手渡してくれた。その手巾はロベルトの生涯の宝物となった。






 男の機能が役に立たなくなった兄の代わりに、フィオリーナを抱くようになってから十日が経った。


 ロベルトも騎士として従軍していたが、後方支援部隊にいたこともあり無傷で帰還している。

 それでも、出征した者は順に長期休暇を取ることができる。その制度を利用して、ロベルトはしばらく騎士団を休むことにした。


 休暇を使って何をしているかと言うと、兄の妻を抱いているのである。あまりに狂った自分の行動に、ロベルトは思わず苦笑した。


「こんなところで、だめ……」

「……義姉上……、あねうえ……っ」


 フィオリーナへの贈り物を買いに出かけた先でたまたま誘われた紳士の集まりを断れず、久しぶりに遅く帰ってくると、玄関にフィオリーナが現れた。

 フィオリーナと兄は王都の郊外にある子爵邸には戻らず、しばらくオルランディ家に滞在するらしい。それはもちろん、ロベルトの閨教育のためだ。


 うれしそうに出迎えてくれるフィオリーナの姿がまるで新妻のようで、ロベルトはたまらなくなった。フィオリーナが愛しい。けれど、それがかりそめの関係であることはよくわかっている……。


 ロベルトは衝動的に玄関脇のアルコーブにフィオリーナを引きこんだのだった。


「ああ、ロベルト様……!」


 ロベルトが義理の姉と関係を持っているのを屋敷中の皆が知っているのに、誰もが知らないふりをする。それにつけこんで、ロベルトは昼夜を問わず場所を問わず、義姉を抱いた。


「義姉上……フィオリーナ」


 ロベルトが名を呼ぶと、フィオリーナはどこか苦しそうな顔をする。フィオリーナを怯えさせないように柔らかく笑いかけると、彼女は昔のように頬を赤らめて野の花のように微笑んでくれた。


 ああ、愛している。

 フィオリーナを愛している。


「あなたを……私のものにしたい」

「ロベルト、様?」

「フィオリーナ……私は……ずっと……」

「言わないで……!」


 ロベルトの腕の中でフィオリーナが体をひねり、顔を背けた。

 フィオリーナに遮られ最後まで言えなかった言葉が、汚れた欲望と一緒にこぼれ落ちていく気がした。






 フィオリーナが屋敷から消えたのは、その翌朝のことだった。






 最初に気づいのは、父だった。


 父は朝早く起きて食堂に来るが、フィオリーナはそれよりも早く支度を整え朝食の席で待っているのが常だったからだ。珍しくフィオリーナの姿が見えないことに疑問を覚えた父が、使用人を通じてロベルトに問い合わせてきた。


 不安を胸にロベルトはとりあえず食堂に下りていく。


「父上、おはようございます。昨夜までは確かに、義姉上は私の部屋にいましたが……」


 最近ロベルトは朝までフィオリーナを離さず、フィオリーナは自分の客間に戻ることのほうが少なかった。


「ベニートはどこだ?」

「さて……屋敷の者達に聞いても、誰も知りませんでした」


 兄のベニートはここ数日、この家にはいない。どこに行ったのかもわからない。騎士学校時代からの悪友に誘われて、賭場(とば)にでも泊まりこんでいるのかもしれないと家宰は言っていた。

 決してほめられたことではないが、今はベニートに意見できる者は誰もいなかった。


「使用人達と手分けして、義姉上を探しましょう」

「いや……」


 父は難しい顔をして、眉間の皺を揉んだ。


「外聞が悪い。目立たぬように、あれを探し出せ」

「しかし」

「おまえならできるであろう」


 目になんの光も浮かべず、死んだ魚を見るような無表情で、父はロベルトに命じた。


 武を重んじる元騎士の父は、これまでロベルトの職務を決して認めようとしなかった。その父が初めて出来の悪い次男の能力に言及したことに、ロベルトは内心驚く。

 しかし、父の瞳の奥底には、歴戦の老兵でも隠しきれない嫌悪感が(にじ)んでいた。






「おにいさん、寄っていかない? 今ならお安くしとくわよ」


 夕日が街を赤く染める黄昏時、歓楽街の裏通りではすでに街娼が客引きをしていた。夜の商売にはまだ早い時間帯だが、大店の営業が始まる前に少しでも稼いでおきたいのだろう。


 熱心な勧誘を避けて、ロベルトは早足で目的地に向かっていた。

 フィオリーナの行く先の心当たりをあちこち探しまわり、残るはとても貴族の女性が赴くとは思えない色町だけとなっていた。


 しかし、手がかりはつかんでいる。

 フィオリーナが結婚前に親しくしていた戦争未亡人がいた。小さな雑貨店を営んでいた平民ではあるが、年の頃も同じで、気取らないフィオリーナとは仲良くしていたらしい。

 彼女は夫も実家の家族も亡くし、フィオリーナ同様困窮して花街に身を売っていた。


 その手の情報を得るのは、仕事柄ロベルトの得意とするところだった。


「ここか……」


 かの女性が売れっ子として働く店は、やや広めの裏通りの一角にあった。春を売る店が両側に並び、軒先に吊るされた明かりがほのかに通りを照らしはじめている。

 昔の流行なのだろう。くたびれた古い店の窓は今はあまり見ないくらい大きめに取られており、客を取ろうと待ちかまえた女性が数人顔をのぞかせていた。


「いらっしゃい。おにいさん、今日一番のいい男ね」


 入り口付近で道行く男を眺めていた赤い髪の女が、ロベルトに声をかけた。


「今日一番? まだ営業は始まったばかりだろう」

「ふふ、いい男なのは確かなんだから、細かいことは気にしないの! ねえ、わたしアガタっていうの。おにいさん、わたしを指名しない?」

「また今度な。今日は金髪の女を抱きたい気分なんだ」


 ロベルトよりもやや年嵩(としかさ)の女は、やれやれと大袈裟に肩をすくめた。姉御肌というか、明るい質の女らしい。

 赤髪のアガタ。調査によると、この女がフィオリーナの友人の戦争未亡人に違いない。


「何さ、金髪女が好きなの? 赤髪もいいわよ」

「覚えておくよ。明るい亜麻色の髪で……胸の大きな女はいないかい?」

「これだから、男は! そういや、今日新人が入ったのよ。おにいさん優しそうだし、その子を紹介しちゃおうかしら?」

「ああ」

生娘(きむすめ)じゃないけど」


 ロベルトは苦く笑った。そもそもその亜麻色の髪の女は、昨夜まで自分が抱いていたのだ。そして、彼女の初めての男はロベルトの兄だ……。


「初物なんて高くて、俺には無理だよ」

「そりゃそうだ!」


 からっと笑ってロベルトの肩を叩いた。意外と力が強い。


「じゃあ、こっちへどうぞ。ちょっと待っててね」


 通されたのは、木の椅子が二脚と大きめの寝台しかない簡素な小部屋だった。壁がずいぶん薄いようで、隣の部屋の物音が聞こえる。


「お待たせ! さあ、フィオ、入って」


 フィオ――あだ名か源氏名だろうか……。


「義姉上」


 扉を開けたアガタの後ろから入ってきたのは、探し求めていた女だった。

 艶やかな亜麻色の髪、優しい水色の瞳。着の身着のまま逃げ出したのか、彼女の持っていたドレスの中で一番質素な灰色のワンピースを着ていた。


「あ……っ」

「待って!」


 反射的に逃げようと身を(ひるがえ)したフィオリーナの腕をつかんで止める。アガタが目を丸くして、ロベルトとフィオリーナを見ていた。


「な、なんなの? もしかして、あんたこの子の……」

「大丈夫だ。無理やり連れ戻したりしない。今夜はここに泊まるから、ふたりきりにしてくれないか」


 フィオリーナではなく、赤髪の友人に話しかける。彼女は心配そうに、フィオリーナに視線を向けた。


「ごめんね、フィオ。わたし、知らなくて。この人があんたの想いびとだったなんて」

「想いびと……?」

「ち、違うの!」


 フィオリーナがたちまち顔を真っ赤にして、自由な片手をアガタの前でぶんぶんと振った。


「違うのよ、誤解しないで! この方は主人の弟で……わたくしが……想ってはいけないひとで……」


 透きとおった空のような水色の瞳から、はらりと涙がこぼれた。

 その美しさに、ロベルトはすぐさま彼女の前にひざまずきたくなった。しかし、今必要とされているのは忠誠ではない。ロベルトはそっと、声も出さずに泣くフィオリーナを抱きしめた。


「義姉上……」

「……最初からこうしていれば。カランドレッリの家名なんか捨てて……潔く身を売ってしまっていれば。そうしたら、こんな想いはしなくてもよかったのに……」


 いつの間にか、アガタの姿は消えていた。ロベルトはフィオリーナを抱いたまま、片手で扉を閉め鍵をかける。


「あのひとだけに抱かれているのは、まだ耐えられたわ。けれど、あなたを知ってしまったら、もう……」

「そんなに嫌でしたか?」

「ええ……幸せすぎる、地獄だった」


 幸せすぎる地獄か……。

 まさにそのとおりだった。腕の中のひとは、決して手に入らない。どんなに愛しても、必要とされているのはオルランディ家の種だけ。

 そのぬくもりを、涙を、汗を知ってしまったら、もう知らなかったころには戻れない。いっそ、身も心も自分のものにしてしまいたくて……。


「でも、もう二度と離さない」

「いや……嫌よ」

「なぜ? 私が嫌い?」

「そんな……違うわ。わたくしは、あの家には戻りません」


 フィオリーナはロベルトの胸を軽く押した。大した力ではないのに、ロベルトは彼女に逆らえない。腕の中から愛しい女性がいなくなり、ロベルトの胸は引き裂かれたように痛んだ。


 少し離れたところに立ち、フィオリーナは胸の前で祈るように手を組んだ。


「わたくしはもう、血筋のいい跡継ぎを生む道具にはなれません。このまま、ここで朽ちていきたい。どうかわたくしを見逃していただけませんか……?」


 ロベルトは大きく一歩を踏み出した。無言のまま、フィオリーナを強く抱きしめる。

 そして、フィオリーナの顎を長い指で持ち上げ、強引に口づけた。


「あ、ロベルト、様……」

「義姉上……あね、うえ……」

「やめて、もう義姉ではないわ」


 激しい口づけに息を切らせるフィオリーナの薄紅色の頬を、小さな花にふれるように優しく撫でる。


「義姉上……、フィオリーナ」


 ロベルトの黒い瞳が強く輝いた。


「あなたをさらってもいいですか?」

「さら……う?」

「あなたが子爵家を捨てる覚悟があるのなら、私も遠慮はしない」

「え……?」

「騎士なんてやめてもいい。家が絶えてもかまわない。私はあなたが欲しい」


 ロベルトはフィオリーナからいったん離れ姿勢を正してから、改めてひざまずいた。


「ロベルト様……!?」


 時代遅れの古い娼館の、隅には(ほこり)の積もる色褪(いろあ)せた床に膝を付き、正式な騎士の礼をとる。


「フィオリーナ、家名を捨て自らの誇りを取った美しいひと。同じく家名を捨て愛を選んだ私ロベルトは、あなただけに永遠の忠誠を誓います」


 寝台から下りたフィオリーナもまたロベルトの前にひざまずき、弟だった男の大きな手を取った。


「ロベルト様……本当に?」

「私の騎士としての最後の誓いです。ずっと……あなたを愛していた」


 ついに言えた。

 昨夜床にこぼれ落ちてしまった言葉を、ようやく愛しいひとに届けることができた。


 フィオリーナはこれまででもっとも美しい微笑みを浮かべて泣いていた。


「わたくしも、あなたをお慕いしておりました。……ずっと」


 ロベルトはフィオリーナを支えながら立ち上がり、上着のポケットから小さな包みを取り出した。


「これをあなたに……。昨日、渡そうと思っていたものです」

「これは……」


 白い箱の中には、細工の美しい小さな銀の錠前が入っていた。鎖を通してペンダントになるような金具が付いている。その錠前の中央には、ロベルトの瞳と同じ色のブラックダイヤモンドがはめ込まれていた。


「幸運の鍵のお返しです」

「もしかして、出征の時にお渡ししたあの手巾の……?」

「ええ。あの手巾は私の宝です。これは、あなたの扉を開けるのは今後私だけであるようにと祈りを込めて」


 ぽろぽろと宝石のような涙をこぼし泣きつづけるフィオリーナの唇に誓いの口づけを贈る。

 ロベルトにはにぎやかな花街の喧騒が、神殿の捧歌隊の祝いの歌に聞こえた。


 ロベルトはたくましい腕でふたたびフィオリーナを抱き上げて、寝台に連れていった。

 そして、ごく平凡な恋人達のように、夜が明けるまで愛を交わしたのだった。






 翌朝まだ暗いうちに、静まり返った歓楽街から旅立つ男女の姿があった。


 やや線が細いがよく鍛えられた体をマントで隠した男は、美しい亜麻色の髪の女性を連れて、朝一番の乗合馬車に乗った。いくつかの町を乗り継いで隣の獣人の国まで行くつもりだ。


 男は先の戦で、レスルーラ王国騎士団の諜報部隊に所属していた。

 そして、潜入捜査の際に伝手(つて)を得て、成果と引き換えにかの国で高官の地位を約束されていた。彼は獣人国にひそかに入りこみながら、同時に王国の情報を敵国に渡す二重の間諜だったのである。


 すべては、前線に立つ重騎兵である兄を追い落とし亡き者するため。そのわずかな可能性を求めて、男は獣人国に魂を売った。


 ――本当は不能にするだけではなくて、殺すはずだったんだよ。

 あなたを手に入れるために、ね……。


 男は走る馬車の中で肩に寄りかかって微睡(まどろ)む女を見て、うっそりと微笑んだ。


「さあ、もう次の町に着くよ」

「……ごめんなさい、うとうとしていたわ」

「いいんだ、昨夜はほとんど寝ていないのだから」

「ふふ、どこかの騎士様のせいね」

「主君への忠誠を捨てた私は、もう騎士ではないけれどね」


 女はその顔に疲労の色を浮かべながらも、明るい笑い声を上げた。


「今もわたくしにとって、あなたは特別な騎士ですわ」






 数週間後、カランドレッリ子爵家当主、ベニート・オルランディ・カランドレッリの失踪が公となった。子爵家は受け継ぐ後継者がおらず、そのまま絶家(ぜっけ)となったが、もともと小貴族であったことから大した話題にもならずに人々から忘れられていった。


 代々レスルーラ王国の騎士として活躍してきたオルランディ家もまた、ベニートが行方知れずになり失意のうちにその父が亡くなったのち、騎士爵を賜るほどの武勲を立てる者は現れなかったという。


 レスルーラ王国内の取るに足らない知らせが獣人の国に届くことはなかった。

 その情報を手に入れたのは、ただ一人……。

 裏町の酒場で手下として使っている情報屋からそれらの消息を高値で買った男は、静かに祝杯をあげた。






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