3度目は自分から
読んでいただき、ありがとうございます。
この物語が、皆様のひと時の無聊を慰めますよう。
ルネ・アラミスはやや眠気の入った頭を振りながら、自宅に向かう帰途についていた。
仮眠の時間はあったとはいえ、2日間の王宮での夜間警護は女性の身ではややつらいものがあった。
ルネの所属する近衛銃士隊の第5隊は、女性のみで構成された部隊だ。
任務は主に王妃の身辺警護をメインとした王宮の警備となる。
女性のみで構成されたこの部隊は、男性が関わることが難しい領域を主に担当する事が求められた。
部隊の性質上、人数は多くなく常に人員の補充に追われていた。
だから仕方なかろうが、2日続けての徹夜は度々ある人員上の都合合わせの結果であった。
よくルネにその声が掛かるのは、王妃からの憶えがめでたいことがあっての事だった。
評価してくれるのは嬉しいが、その評価の内容が警護で動ける見目の良い女性であるという一点に尽きているだけに、ルネの心中には鬱屈としたものが溜まっていた。
警護という仕事に対してはやりがいを感じているし、王妃の近衛という身分にはある程度の評価が集まるものの、幼いころに抱いた前線で戦う騎士という理想像とは程遠い現実を突きつけられた現在、何処かで戦う自分というものを夢想することが多くなっていた。
くあ。思わず欠伸が漏れる。やはり、2徹は体に堪えているようだ。
交代が遅れて来たら、王宮の仮眠室で籠っていることを決心した位だ。
だが、まだ寝る訳にはいかなかった。朝の祈りも欠かしたし、日曜のミサは早出の仕事で潰してしまったからだ。せめて、休暇に入った今日にでも帰り道にある教会に寄って、礼拝を捧げておきたい。
ヨハネ神父は銃士という仕事に対して理解のある方だが、ミサを欠かすというのは自身の信仰が揺らぐ気がしてルネ自身が赦せるものではなかった。
ラテン語地区の小路を抜ける。
確かこの先に、テラスに広がった喫茶店が有った筈だ。
店主自慢の伊太利亜仕込みのエスプレッソで、ガツンと眠気を飛ばしてから教会に向かうとするか。
昼もだいぶ下がった時間に、うすぼんやりと思考を巡らせながら足を進める。
ルネが歩く傍らを、黒に白の縁取りを施した神官服を着る青年二人が聖書片手にすれ違う。
近くの神学校が捌けたのだろう、ラテン語と仏蘭西語の入り混じる会話はどうやら聖書の解釈についての意見交換のようだった。
ちらりと刹那の間だけ、そちらに視線を遣る。
多分に、視線に羨望が混じっているのは自覚している。
敬虔な信徒であるルネは、幼い頃より出家して修道女になる事が願望としてあった。
神を信じ神に近い場所で、生涯を過ごす生活に憧れに近いものを持っていたのだ。
もし、貴族の生まれでなければ、もし、男であったなら、迷わず神学校の扉を叩いていた自信がある程には、これまでの人生を信仰に捧げていた。
ただ、ルネの生まれは貴族の中でも軍家に近く、ルネは騎士としての教育を主に受けた。
しかも、皮肉なことにルネの騎士への適正は非常に高く、両親の意向もあって近衛銃士隊への入隊と相成ったのだ。
そこに不満はない。戦えるものが戦う。そこに己の意思が介在しないことは、貴族であるなら間々有る事だ。
己の願望は二の次にすることは、ルネにとって日常茶飯事だった。
それに、銃士も悪いものではない。
今の時代、完全な男社会であった銃士隊や督教も、だんだんと女性の場が増えている。
その証明に、百年前に仏蘭西を奪還してのけた聖処女も、紆余曲折の後とはいえ列聖されている。
ならそれに足る活躍の場を夢想するくらいは、ルネの自由ではないか。
テラスの絶妙に日が差し込んでいる日傘の席を陣取り、給仕係に目当ての珈琲とクッキーの注文を通す。
オーダーが来るまでの眠気覚まし代わりの読書に、ポケット聖書を広げて目を走らせた。
暗記するほど読み込んではいるものの、やはり、実際に文字を追うとまた違う発見があって面白い。
気に入りの福音書を数節読んでいると、誰かがルネの対席に腰を下ろしたのが見えた。
「相席、いいかな?」
「他にも席はあるでしょ?
私としては断りたいんだけど」
相手は想像ついたので、聖書から目を上げずに独白の風を装いながら云う。
「要望は変わってないでしょ? なら、私の答えも変わらない。
――私はこれでも銃士隊に愛着を持っているの。枢機派には移らないわ」
「判らんな、アラミス。貴女の信仰の篤さは、リシュリュー閣下も認めておられる。
枢機卿の膝元なら、貴女が長く燻らせている野望を達成できるかもしれんと云うのに」
「叶うかもね。けど、決して私の望む形にならないことも断言できる。
歪んだ権力の使い走りとして、頤使されるような将来は受け入れ難いわ」
漸く上げた視線の先に、臙脂に染め上げられた隊服を着る男がいた。
眼帯で右の眼を覆った隻眼の男。
リシュリュー麾下の私兵を取りまとめる総隊長の肩書を持つロシュフォールがそこにいた。
薄い唇が弧を描く。
「心外だな。閣下は、献身に相応の対価を持って報いられるお方だ。貴女の価値は判っておられるとも」
「だからこそ、よ。
相応の対価を要求されるという事は、私の求める面倒な要求に値する厄介事を持ってくるってことじゃない。
取るに足らない一介の銃士の身に余る野望、枢機卿は報酬を渋ると思うけど?」
「謙遜だな、三銃士。銃士隊最強の三人の一角という看板は、甘く見られるものではないとも。
――その内の一人、唯一の女銃士となれば、必然的に価値は跳ね上がる。
我らは貴女を正当に評価しているとも」
にぃ。ルネの艶やかな朱を刷いた唇が、ロシュフォールに負けず劣らずの弧を描く。
「本音が出たわね、ロシュフォール。
枢機卿が欲しいのは、女の銃士ね。
私ってことは、大方、アンヌ王妃の動向を探るための密偵が欲しいって処かしら?」
「………」
「駄目よ、ロシュフォール。本音を突かれたからって、沈黙を選ぶのは最悪手。
そう云う時こそ、変わらない笑顔は鉄則よ」
憎さとも怒りとも判断のつかない酢を呑んだような表情が、ロシュフォールの仮面に貼り付く。
「…肝に銘じて置こう。
我らが貴女を諦めた訳ではない。その気になればいつでも連絡を」
辛うじてそれだけ口にする。席を離れる足取りには迷いはなかった。
迷惑料の積もりか、注文もないのに立った後の卓上には金色の輝きが一枚分。
漸くやって来た珈琲で眠気を誤魔化しながら、ルネを抱き込もうとするリシュリューの企図を推察する。
女の銃士は、ルネを筆頭として数が少なくも一部隊を形成している。
そして、女性隊員は、例外なく王宮の男子禁制区域の勤務となる。
特にルネはアンヌ王妃の気に入りで、王妃の警護を選任されているほどだ。
つまり、ルネに接触したということは、アンヌ王妃の密偵を求めた可能性が高い。
何かと角を突き合わす王党派と枢機派だが、リシュリューは生粋の愛国者だ。
その証拠に、これまでリシュリューは王党派の内情を探ることはあっても、王家の懐を探るような真似はしなかった。
つまり、喫緊の状況で王家の、とりわけ王妃の動向を内偵する必要に駆られたという事だ。
リシュリューがルネへの接触を始めたのは3ヵ月前、つまりそれ以前のアンヌ王妃の身辺を洗う必要がある。
アンヌ王妃は、墺太利王家に連なるハプスブルグ家の縁者である。
その関係できな臭くなったか?
思考が纏まらない。やはり、眠気が思考を乱す。
明日、アトスに知恵を借りるか。
そもそも、今は漸くの休暇だ。仕事の事で頭を抱えたくはない。
ロシュフォールに倣いたくはないが、卓上に代金とチップを払い席を立つ。
店員の視線が代金を確認したのを見届けて店を離れる。
その時、気が緩んでいたのだろう。
数人の視線がルネの財布が仕舞われる瞬間を鋭く確認していたのを、彼女自身は気付かぬままであった。
カルチェ・ラタンは大通りを除けば複雑に入り組んだ小路で成り立っている。
そのせいかスラムを除けば最も犯罪が起きやすい地域でもあった。
教会への近道と色気を出したのがいけなかったのだろう。小路に入り込んだ瞬間、ルネを追い抜くように十代の少年たちが走っていく。
二人、三人、其処までは何もなかったが、四人目がルネの懐から財布を抜き取った。
歓声が狭い路地に響く。掏摸。そう意識に上った瞬間、ルネの思考が怒りで赤く染まった。
「…待ちなさいっ!」
伊達に銃士ではない。遅れは取ったもののルネの脚力は、其処らのものと比較にならない程度に鍛えてある。
カモシカを思わせる優美な脚が爆発的なスプリントを弾き出し、財布を取った相手との距離を詰める。
宝珠はあるが、魔術を使うことで発生するタイムロスは避けなければならない。
なら、相手が攻撃圏内に入るまでは脚力のみで距離を詰め、入った瞬間に腰の刀剣で抜き払うしかない。
そう攻略プランを練り、一層脚を速めた。
しかし、思い通りにならないのも世の常か。
先を走っていった筈の少年たちがルネの進路を塞ぐ。目標の少年が視界から消えた。
「くそ! 退きなさい!」
強引に少年たちを押しのけて小路を曲がる。その向こうから此方に歩いてくる成人したばかりであろう青年が見えた。
少年たちの護衛役か? 邪魔をされて茹だった頭は、何かおかしいと思考する間もなく、ほぼ反射神経で腰の刀剣を抜き払っていた。
銀閃が相手の喉元に伸びる。
寸止めできる勢いではなかった。勢いは衰えることなく青年へと到達した。
――――――――――――――――――
指示された住所に向けて、カルチェ・ラタンの小路に入り込んだら一気に人混みが目に見えて減った。
ここまで来れば、もう厄介事は降りかかってこないだろう。漸く肩の力を抜く。
この一日で、厄介事が一年分やってきた気がする。
極めつけは決闘が二回連続だ。はっきり云ってお腹一杯だ。
「どうしたものかね…」
途方に暮れた呟きは、誰にも責められたものではないだろう。
肩を落としても、決闘が消えてくれる訳でなし。
止めぬ歩みの先の角から、はしっこそうな少年が走ってきてすれ違う。
何だ? そう思う間もなく、次いで走って来た女性が剣呑な眼差しで此方を睨む。
すんげえ嫌な予感がした。
何かも判らぬままに誤解だと叫ぼうとするが、言葉になる前にルネの腰から銀閃が放たれた。
それが何かの判別がつく前に、腰に引っ掛けていた細剣の模造剣を持ち上げたのは奇跡以外の何物でも無かった。
激突
刀剣が、模造剣の表面を削りながら滑る。
相手に剣の心得が有る事を理解したのか、隙の無い物腰で後退。
話を聞いて貰おうと口を開きかけるが、言葉を赦さずに無言のままでルネが吶喊を仕掛ける。
「ちょ…!」
一寸待て! その叫びも形になる前に、鋭い剣閃が3つ放たれる。
構造的に脆い細剣だが、模造剣なら鉄の延べ金とそう変わりはない。
刃毀れに気を使わなくていいというのは、模造剣ならではの利点と初めて気付いた。
攻撃圏内から逃げるという思考も持てぬまま、ルネと3合打ち合わせる。
刀剣は兎も角、ルネの腰に備えられた長銃型の魔導器を抜き放たれたら、此方に不利どころか死を覚悟しなければならなくなる。
何とか此方から抑え込んで話を聞いて貰うしかない。
ただ、3合打ち合って判ったが、彼女は相当な腕利きだ。
これを引き分け程度に持ち込むのは至難の業だ。
一言が隙と見られる緊張下で、じりじりと睨みあいながら姿勢を変える。
体勢を半身に、左手を腰に、左脚は力強く、右脚は地面に添えるように。
幾度となく繰り返した決闘剣術の基本。
堂に入ったその構えに此方の力量を察したのか、ルネは眼差しを細めて呟く。
「…惜しいわね」
「は?」
「その腕があれば、軍に入っても食べていけたでしょうに。
犯罪行為に手を染めるとは、剣の腕が泣いているわよ」
「犯罪!? いや、違…!」
形はどうあれ、相手から振って来た会話だ。
必死になって誤解を解くべく言葉を続けようとするが、再度の吶喊で口は閉じざるを得なくなる。
払い、払い、突き、払い。
苦手は自覚しながらも、先手を取られた事から防御と後進で姿勢が崩れるのを防がざるを得ない。
フェンシングの剣術理念は、常に先手を取ることに有る。
先の先、若しくは先の後。後手に回ると、どうしても不利になるのだ。
同じ条件下なら距離を取って仕切り直すのだが、ルネの腰にある魔導器がどうしても魔術を警戒させる。
仕方ない。このまま捌き続けるしかない。
数度剣を合わせたのち、刀剣を強引に弾く。
相手が踏鞴を踏む隙に付け加えて、自身の攻勢に持っていく。
相手の出方を見ずに姿勢を変えるのは、更に悪手を重ねるだけだが他に方法が思いつかない。
突き、突き、防御、払い、突き。
一対一を前提とした決闘剣術は、こう云った状況下で最も威力を発揮する。
ルネの息が一気に荒くなった。
ここが好機と、たたみかける姿勢を崩さず口を開く。
「…何を勘違いされているか知りませんが、誤解を解く余裕を頂けませんか?」
「…誤解? 今まさに犯罪を犯した者の決まり文句ね、それ」
「犯罪の事です。
私と貴女は初対面であったと記憶していますが?」
「間違いなく、そうね」
「では、何の犯罪を?」
「掏摸よ。
財布を返して頂戴。返ってくるなら警邏に突き出すことはしないわ」
漸く、先にすれ違った少年が、掏摸であった事を理解する。
つまり、掏摸の護衛役と勘違いされた訳だ。頭が痛い。
やっていないというのは言うは易しだが、無いものの証明は非常に難しい。
平民相手なら貴族の立場を振りかざせるが、相手も貴族、それも戦闘訓練を受けた女性騎士なら間違いなく法衣貴族であっても高位に位置する相手だ。
しかし、其処まで思い至って、漸く自身の証明となるものを所持していたことを思い出した。
「犯罪に関わっていないという証明をみせればいいんですね?」
「…出来るならね」
勘違いの可能性に思考が至ったのか、幾分落ち着いた応えが返る。
刀剣を仕舞う。その休戦の意思を見て、此方も両手を挙げて見せる。
「懐を探しても?」
「…ええ」
目的のものは直ぐに見つかった。
トレヴィル卿直筆の紹介文。
「銃士隊総長のトレヴィル卿はご存知ですか?」
「上司よ」
良かった、銃士だったか。紹介文を見えるように抓み出して、相手に渡す。
「トレヴィル卿より戴いた紹介文です。この先の宝石職人に依頼がありまして」
紹介文の名前を確認して、一気に相手の雰囲気が軟化した。
やはり、トレヴィル卿の署名はそれなりに効果があったようだ。
「ごめんなさい。勘違いだったようね。
余りにもタイミングが良すぎたから、勢いで剣を出してしまったわ」
「…私だったから良かったようなものです。そこらのものなら首と胴が泣き別れになっていましたよ」
この位の愚痴じみた抗議は許されるだろう。
何しろ、目を合わせた途端に殺されかけたのだ。如何に貴族の自衛権が保証されているからと云って、何でもかんでも暴力に訴えられるというものでもないのだ。
あまりに理不尽な暴力の行使には、当然それに準じた罰則が付いて回る。
それは、どんな高位の貴族であっても変わりはしない。
無実の者を問答無用に殺害したとあっては、最悪、僻地への追放程度は覚悟しなくてはならない。
「…その点は本当によかったわ。
それで、掏摸の下手人は…」
周りを見渡しても無駄だろう。
実行役も、逃がした少年たちも、此方が剣を突き合わせている隙に逃げ去っている。
周囲に残るのは、人の気配が薄れた静寂のみだ。
「探すだけ無駄ですね」
「みたいね」
吐息を一つ。二人の間に蟠る緊張が、一気に解けて消えた。
相手の女性銃士の誤解が完全に解消された事に、エヴァンの緊張が緩む。
銃士であるが、流石に短絡的な思考の持ち主ではなかったようで、オリヴィエやらイザークやらみたく決闘に持ち込まれることが無かったのが幸いか。
まぁ、冤罪騒ぎの誤魔化しで決闘というのも、相当に変な話なのだが。
短絡的な決闘が既に2例ある以上、斜に穿った目線で物を見るのはある程度許容範囲ではあるだろう。
「本当に御免なさい。
私はルネ・アラミス、銃士隊に所属しているわ」
「…どうも、エヴァン・シャルル・カステルモールです。
誤解が解けたようで、何よりです」
差し出された手を握り、和解の握手とする。
ミドルネームを聞いて此方が貴族と判断したのか、ルネに納得の笑顔が浮かぶ。
「あぁ、枠狙いだったのね。どうにも腕が立ちすぎていると思ったわ」
「確かに貴族ですが、枠狙いじゃ…」
服装と年齢から判断したのだろうが、そろそろその枠狙いの発想から全員抜け出して欲しい。
「けど、気を付けなさい。銃士は腕が立つに越したことはないけど、枠狙いが貴族になれる可能性は殆ど無いの。別の技量で身を立てる算段を持っていた方がいいわ」
…聞いちゃいねぇ。
と云うか、トレヴィル卿の後、人の話を聞く銃士に会った試しが無い。
まぁ、もう縁の切れる相手だ。適当に受け答えをして別れるとするか。
「ソウデスカ。以降、気を付けるとします。
――それでは、これで」
軽く会釈して、その場を離れる算段を付ける。
そのすれ違いざまにルネの気の毒そうな台詞が聞こえてこなかったら、本当にこのままで終わっていたはずだった。
「えぇ。
――それと銃士隊に入隊したのなら、少し態度には気を付けて頂戴。
私に勝てなかった事は恥じる必要は無いとしても、隊には貴方程度の力量は普通に居るのだから」
さっさとこの場を離れようと、足早になった歩みの速度が止まる。
ルネとしてみたら、親切ついでの忠告のつもりだったのかもしれない。
しかし、その対象となった自身としてみたら、到底聞き逃す事の出来ない内容だった。
「…それはつまり、あのまま行けば貴女は私に勝っていた、そう云う事ですか?」
「えぇ。これでも、剣の腕は其処らに比較できない程度にあると自負しているわ。
――それが、如何かしたのかしら?」
口調から、彼女は自身の勝利を疑っていないことが窺えた。
確かに腕は立っていた。それでも、勝ちの目が有ったのはエヴァンの方だった筈だ。
戦闘訓練を受けた者として、その部分は譲れなかった。
「勝敗に関しては、異議を唱えさせてもらいますよ。あのままやっていれば、先に呼吸を使い切って動けなくなっていたのは貴女の方だった筈だ」
「その前に魔術を使用して、局面をひっくり返していたわ。
結局は同じ事」
「スタミナが切れた時点で、魔術を使う余裕なぞある訳がないでしょう。
貴方の実力が銃士の中でどのレベルに存在しているか知りませんが、迂闊な勝敗を結論付けるべきではないかと」
ルネの眉間に皺が寄る。
エヴァンは知らぬものの、三銃士、銃士隊最強の三人の一人に数えられているルネは、相応にプライドだって持っていた。
単純に、この称号は銃士隊における実力の序列で与えられているため、ルネとしてもたかが枠狙いに土をつけられたなぞ認める訳にはいかなかった。
「なにも勝利を譲れと云ってる訳じゃありません。最低でも勝敗は判らなかった、程度の妥協はお願いしたいだけです」
「勝敗を考慮しなくても、私の勝利は疑いなかっただけよ。
結論は変わらない。私の勝利と貴方の敗北、其処に議論の余地はないわ」
エヴァンは言葉では知っていたものの、結局のところ銃士隊の本質を理解していた訳ではなかった。
極論、貴族の上意下達が罷り通る脳筋集団。
ルネの危惧は其処に有った。
後日、目の前の枠狙いの口からルネの敗北が伝わると、最悪、銃士隊での上下関係がひっくり返る可能性だってあるのだ。
それは避けるべき最悪の結果だ。何しろ、今の地位とて一朝一夕に築かれたものではないのだ。
それが、こんな徹夜明けの身体とふらついた思考での小競り合いで総て無くすなど、受け入れられるものではないのだ。
例え、貴族の上下関係を持ち出してでも、この結果を押し通す必要があった。
「こちらとしても認められるものではないですよ。
ここで私の敗北が公になってしまうのは、少々不味いので」
「この、頑固な!」
一方、エヴァンもここで敗北するなどと云う記録が付くのは避けたかった。
明日の決闘が如何いう形で処理されているか知らなかったが、その前に敗北するという結果が正式なものになってしまうと、勝利に飢えた者達が家格と今回の敗北を以てエヴァンの敗北を決定付けてしまう可能性があったからだ。
最悪、決闘が如何なってもいいが、カステルモール家、ひいてはマルコ、バチストの動向にどんな形で影響してくるのか判らない。
今日話しただけで判ったが、剣の腕は兎も角、あの二人の脳筋ぶりは数年で磨きがかかったように感じた。
闇討ちなどの短絡思考に走られる前に、此方から釘を刺す形はとっておきたかった。
「頑固にもなりますがね。こちらも人生が懸かっているので」
こうなってしまうと、先程の戦闘である程度の白黒をつけなかったのが裏目に出てきた。
曖昧な結果は、双方に都合のいい結論しか出さないため、中途半端に引く事の出来ない事態を作り出してしまったのだ。
何方かが敗北を譲れたらここまで拗れる事も無かったのだが、結論が宙に浮いたまま舌戦が白熱し始めた。
「…っ。良いわ、其処まで言うなら………」
「決闘ですか! 上等です、白黒つけるとしようか‼」
舌戦と襲い来る睡魔の波に、いい加減嫌になったルネが決闘を持ち出すよりも早く、エヴァンが決闘を持ち出した。
ルネが目を丸くするが、既に頭に血が上っていたエヴァンは、一人勝手に決闘の算段を付ける。
「場所はシテ島、カルム=デショー修道院の跡地。時間は午後2時で構わないよな!?」
そこまで捲し立てて、ルネの返事を待たず、跡目を振らずに足早にその場を去る。
後に残ったのは、呆然と少し冷静さの戻ったルネだった。
「………何あれ。田舎者ってあんなに簡単に、決闘に持ち込みたがるものな訳?」
先程、自身も決闘を持ち出そうとしていたことを棚に上げて、呆れ半分に呟く。
決闘は貴族の嗜みとはいえ、早々にポンポンと行われるものではない。
貴族社会全体でも数年に1.2件、貴族人生に於いて2件あればやりすぎと呆れられるほどだ。
だが、彼の言動から決闘慣れしている雰囲気が窺えた。
カルム=デショー修道院は、赤公爵の警邏も滅多に訪れない云わば決闘の聖地だ。
服装から田舎から出てきたばかりと想像はついたが、何故カルム=デショー修道院を知っていたのか。
気にはなったが、いまさら問い質すのも何だろう。
肩を竦めて帰りの足を再開する。
まぁ、幾ら何でも今日一日で2回も決闘を押し付けられて、文言上だけ決闘慣れしてしまった等と云う情けない理由は想像の埒外だったのだろう。
今回ばかりは、さすがにルネばかりを責められなかった。
………一方、ルネが見えなく位置まで歩いて、念を入れてさらに角に隠れてから、エヴァンは頭を抱えて盛大に後悔した。
「ああぁあぁぁ! やっちゃったよ!」
文句も言えない、明日、一回は決闘しなきゃいけなくなった。
頭に血が上ったとは云え、今回は自分から言い出した決闘だ。
相手も酒を飲んでた様子もなければ、誤解をしていた様子もない。
自業自得だが、こうなってしまえばこの決闘だけはするしかない。
「…はぁ。取り敢えず宝石の加工技師の処に行くか」
そして、其の後は。
「遺書でも書くか」
笑えない作業が残るだけとなってしまった。
TIPS
リシュリュー枢機卿の警邏隊について。
本来はリシュリュー枢機卿の護衛を目的とした私兵の集団です。
貴族、それも宰相という重要なポストの私兵であるため、近衛銃士隊はもちろんの事、仏蘭西皇帝も口出しすることはできません。
そういった背景もあり、宰相のひざ元を守るという名目のもと帝都の警邏を自発的(無許可)にやっている集団です。
本来、逮捕権等はないのですが、自分たちの本拠に大掛かりな牢屋を建造するなどのかなりの暴挙もしています。
巴里市民からすれば、ぶっちゃけウザい集団にしか見られていないのが、結構悲しい現実だったりします。
枢機卿のシンボルカラーである臙脂の染料は非常に高価なのですが、警邏隊全員の隊礼服を同色で揃えているのをみると、枢機卿の財産は相当なものと思われます。
因みに、リシュリュー枢機卿の権力は皇帝に次ぐものとなっています。
公爵以下の貴族の権力がほぼ名ばかりになっているため、銃士隊内では彼の事を『赤公爵』と陰口を叩いています。