マルシェ通りの出会い
読んでいただき、ありがとうございます。
この物語が、皆様のひと時の無聊を慰めますよう。
下宿先の部屋に入って、ぐるりと見渡す。
先程聞いた話が本当なら、この部屋はボナシュー夫妻の居住だったわけだ。
成る程。確かに云われてみれば、人がごく最近まで住んでいたような生活臭が漂っている。
窓際のベッドに、ナップザックを投げ下ろす。
最低限の服を棚に入れ、ようやく一息つけた。
とは言え、まだ日も高く腰を落ち着ける余裕は、今の俺にはない。
金の余裕もないが、食料を確保しないことには、明日とは言わずとも数日後には行き詰る。
様々な知識が欠けている。さしあたって生活するための知識が、だが。
無いものねだりは、しても仕方がない。
動くのみかと覚悟して当座の金子を懐に、俺は足を外に向けた。
「食料?
……難しいんじゃないかな?」
ボナシュー夫妻の元を訪れて食料品店の場所を尋ねた俺は、まさかの返答に愕然とした。
こんな都会では種々様々な店舗が軒を連ねていると思っていたのだが、曰く、長期にわたる保存が効かない類のものは契約を結ぶことで供給されるらしく、低収入者では良質の生鮮品等は入手そのものが困難だという。
「……じゃあ、ここら辺りではどうやって食料を入手してるんですか?」
海の上じゃないのだ。それも供給手段が整えられた帝都において、生鮮品が手に入らないなど考えられない。困難であっても不可能とは言われなかったのがその証左といえた。
「ここを出た正面通りを南に暫く歩けば、マルシェ通りに出る。更にセーヌ河の方向に少し行けば、広場に出るよ。
そこなら恒常市が出てるから、食料品を買い求めることも可能だろう」
方法はあった。
ほっとした。しかし、俺の安堵とは裏腹に、ボナシューの表情はあまり浮いたものではなかった。
「忠告だけど、今は保存食だけを買いなさい。
生鮮品は売っているとしても、あまり期待はできないよ」
表情通りの忠告は、しかし俺は納得して受け入れた。
通りの名前を聞いて想像がついたからだ。
「生鮮品は日曜市を待つんですね」
市場通りと呼ばれているのだ。経済緩和目的で毎週日曜に市場の開放が何処かで行われているのは、容易に想像がついた。
問題なのは、今日は水曜日だという事実だ。
今日を含めて、日曜市の開催まで4日。
多少高かろうが、冷暗庫に保管してあるかも怪しい生ものよりも、保存食の買い込みで何とか凌いだほうが健康にいいだろうというボナシューの忠告は理屈に叶っていた。
「うん、その通り。
後、治安も悪いから、歩けば掏摸に当たる程度の覚悟はしておきなさい」
「判りました。
――忠告感謝します」
下宿先を出て、指示された通りを15分ほど歩く。
マルシェ通りの先、一際広く視界が拓ける。
最初に、雑多な人混みが行き交う流れが見えた。
次いで、屋台が客を呼び込む声。
食料を中心に扱う市が、広場の周囲を隙間なく囲うのが垣間見えた。
屋台から漂うゴーフルの甘い匂いに釣られかけながら、必死に人混みの中を泳ぐ。
ボナシューの忠告通り、生鮮品はかなり鮮度の落ちたものがやや高めで取引されていた。
正直、持ち合わせと相談したら、忠告が無くとも生鮮品は買えそうになかったが。
人の流れに慣れ始めたころ、ようやく幾つかの市で目的のものを購入した。
酢漬けのキャベツ、同じく酢漬けのリンゴ5個、通りで見かけた精肉店とパン屋でハムとバゲットを購入すれば、購入目的は消化できるだろう。
すべて合わせて3ソルといった処か。
満足のいく結果に頷きながら、しかし、しばらく歩いたそこで俺は足を止めた。
樽を立てただけの、見落としてしまいそうな小さな市。
10を超えたばかりの子供がつまらなそうに店番をしているのが見えたが、扱っているものが俺の興味を引いた。
「これ、バカリャウか?」
樽の上に並べられた6本の黄灰色の干物。
内陸に位置する故郷では、海に由来する食料は高級品に位置付けられている。
塩漬けした棒鱈の干物は、ガスコーニュの民にとって滅多に口にできないご馳走でもあった。
値段を確認する。
――安い。予算に多少足が出るが、手の届かない値段ではない。
「坊主、ちょっといいか?」
思わず、店番の子供を呼んでしまう。
坊主呼ばわりが気に食わなかったか、犬歯をむき出して威嚇された。
「坊主、じゃねぇよ! ウィリアム・プランシェだ」
姓の入った名乗りに、内心驚きが隠せなかった。
姓が入っているという事は、少なくとも生まれは中級市民であることを意味する。
見た目はスラム育ちそのものだから、市民税を納められなかった両親のあおりを受けて貧困層落ちしたといった背景が想像できた。
「すまない。プランシェ君、か」
威勢のいい啖呵に毒気が抜け、素直な謝罪が口を吐いた。
相手も、気炎が削がれたのだろう。照れたのか気まずそうにそっぽを向く。
「…ウィルでいいよ。
――で、何?」
「商品の件だ。これ、バカリャウだろ?
何で、こんなに安いんだ?」
「”こんなに”?
確かに他のと比べると安い自信はあるけどさ、其処までいうほどじゃないぞ?」
胡乱げな眼差しに、何かに気付いたのかにやけた笑みが混じる。
「ははぁ。兄ちゃん、南西部の出だろ。」
「あぁ。確かに近い。
――よく判ったな」
「簡単だよ。兄ちゃんの服装、帝都に来たばっかりのお上りさん丸出しの恰好だろ」
「…ほっとけ」
「怒んなよ。
――で、バカリャウを知ってる。
バカリャウはさ、仏蘭西の南西部辺りでしか知られてないんだよ」
初耳だ。
俄然、興味が湧く。
「バカリャウは葡萄牙の食べ物だ。西班牙から仏蘭西に渡ってきたって聞いたことがある。
仏蘭西に渡ってくるなら、せいぜい南西部辺りでしか捌けないはずだし、届いたとしても巴里では人気の出る商品じゃない」
「何でだ?」
「セーヌ河から、海鮮物を運ぶ船が直入してるから。
河口の港町から獲れた魚を積んだ貨物船が、遡上するんだよ
わざわざ、葡萄牙くんだりから干物を買い付ける必要はないんだ。
商人達もそれを知っているから、巴里までバカリャウを残す真似はしない。
内陸なら、海由来のものはそれなりに高く売れるって聞いたことがあるし」
海由来のものは高級品というのは、故郷の共通認識みたいなものだった。
そこに付け込まれたのか。
なるほど。都会と田舎では価格が違うのは知識としては知っていたが、都会だと安くなるというパターンは想定外だった。
「ちなみに、余所の乾物屋だと120ドゥニエ辺りだな。兄ちゃんの故郷だと幾らだったんだ?」
「…等級にもよるが、だいたい1ソルってとこだな。
――ボられてたのか」
「輸送の苦労とか判んねーから、一概には言わねーぞ。
けど、値段が倍違うとか、それっぽいな。
まぁ、相手も商売なんだし、声高につつく事でもないだろ」
事実そうなのだろうが、釈然としないものが残る。
親父は知っていたのだろうか?
知っていたかもしれないが、黙っていただろう。
味がどうこうではなく、高級だから手に入れてたような節はあった。
トマスの性格からしても、それが正解のような気がする。
「だが、周りよりも安いのは事実だな。
――1つ貰う。安い理由は、聞いてもいいか?」
「毎度あり。っつか、買う前に聞けよ。
まぁいっか。簡単な理由だよ」
新聞紙に包まれたバカリャウを懐にしまいながらふと抱いた疑問をウィルにぶつけると、苦笑しながらもポケットから取り出したナイフでバカリャウを少し削った。
渡されたバカリャウの欠片を、口に放り込む。
理由は直ぐに知れた。
「……塩気が薄いな」
無いわけじゃないが、ひどく薄い。
本来、これを煮込むだけでスープが出来るほど、塩気が強い代物だ。
これでは、ただの薫製でしかない。
「解ったろ?
此処らじゃ、塩は結構高い。塩は極限までケチる必要があるんだよ。
――代わりと云っちゃなんだけど、薫製は丁寧に仕上げてる自信作だぜ。
後、鱈は等級外のやつを、格安で仕入れてる。
足の早い鱈は、帝都じゃ不人気の魚だ。大っきくないと売れ無いから、入手しやすいんだ」
なるほど、考えられている。口に含んだ分は少なくとも薫製の出来はいい。
生活の目処が立てば、また購入するのも良いか。
「兄ちゃん、後に購入する予定のものはあるか?」
エヴァンが告げた購入予定に、ウィルは数秒思案する仕草を見せた。
「……バゲットは、そこの通り右手の店がお勧め。
ハムは、今週に豚の締めがあったから、購入は待った方が良い。値段の確認をしときな。
代わりに、チーズの購入を検討しとけ。昨日、銀行員がチーズの卸に来てたから、値段が安くなってるはず」
流れるように告げられた情報に、目が瞬く。
しっかりした理由と迷いない口調は、情報の信頼性を裏付けるものであり、とりもなおさずその情報は価値のあるものであると思えたからだ。
「……大盤振る舞いだな。
――いいのか?」
「サービス。この界隈の情報はそれなりに握ってる。
これでも、情報屋で喰ってんだ。兄ちゃん、多分枠狙いだろ?
金次第で、情報獲ってきてやんぜ?」
枠狙い? 聞きなれない名称に疑問が湧くが、目の前の相手に正直に聞く気はない。
その情報だけで金が取られるかもしれないし、そもそも、こちらが相手の予想した立場でなかった場合、せっかく得られた情報源を失う可能性もある。
「それは有り難い。
情報屋は伝手が欲しかったんだ。」
疑問を押し隠し、ウィルによそ行きの笑顔を向ける。
「連絡が欲しい場合はどうすれば?」
「水曜と木曜は恒常市で市を張ってるよ。
方法は他にもあるけど、兄ちゃんに教えられるのはここだけだね。」
それ以上の信頼はまだ無い、ということか。
当然だろう。遇って数分もない男との信頼としては、これでも破格の部類だ。
「判った。先ずはウィルの情報の正確さを確かめるとするか」
「おう。気に入ったなら、ご贔屓に頼むぜ」
向けた背にかけられた言葉に右手を挙げて応えて、その場を離れた。
情報は正確だった。
ウィリアム・プランシェ。この後、永く付き合うこととなる男との、これが最初の邂逅だった。
TIPS
日曜市。
貴族社会が限界寸前でも維持しなければならないため、しわ寄せは当然、平民に高額の税という形で降りかかってきています。
不満は爆発しかけていますが(実は何回か反乱という形で爆発しています)、何とか持ちこたえているのはこういった無課税もしくは低課税の市(公認の闇市みたいなもの)が定期的に開催されているためです。
日用品や食料に高額の税率をかけてしまったため、下手すれば経済活動が倒れる可能性があったためです。
無論、プランシェ君は申請していない無許可の店舗ですが、反面、価格設定は良心的です。