一章 カルム=デショーの決闘『ボナシュー雑貨店』
1章と話のタイトルはどうやって分けるんでしょうか…
何度やっても、分けれません。
エヴァンが巴里中央のリヨン駅に降り立ったのは、社交期を迎える鼻先、肌寒さが抜け始めた頃の昼にはまだ遠い朝のことだった。
排煙混じりの重く粘ついた蒸気が、16歳になったばかりの青年の足元を舐める。
自動車が普及し始めたとはいえ、未だに帝都の流通を一手に担う交通の要衝たるパリ・リヨン駅は、雑多な人の波に溢れていた。
行き交う人の流れは、少し気を抜くとあっという間に俺の身体をどこかに押し流そうとする。
泳ぐように人の波をかき分ける。やがて、柱と壁の間に流れ着いてようやく一息を吐けた。
ポケットをまさぐり、『ヴァンタール商会』の紹介文を引きずり出す。
少しよれたそれの最後に記された目的地までの簡素な地図に目を通す。
改札口を抜けると、一気に人の流れに余裕が出来た。
周りを見渡せる余裕のままに、周りをぐるりと見渡してみる。
故郷とは、何もかもが違う。
洗練された背広を着こなす男性と女性。
最近、都市部で流行りの働く女性って奴だろうか。忙しそうに足早に去っていく人たちを憧れの目で見てしまう。
刻印魔術によって強度を高められた構造体に支えられた高層建築が、俺を圧倒するように通りの奥まで林立しているのが見えた。
圧倒されている事実に、素直に高揚する。
傍目、お上りさん丸出しなんだろうなと自覚しつつも、肩からずれかけたナップザックを背負いなおし足を踏み出す。
――気圧されてる場合ではないのだ。
これから俺は、この帝都で暮らすのだから。
指定された巡行バスから降りたのち、帝都を縦断するセーヌ河の支流を散歩がてらそぞろ歩く。
肌寒さのだいぶ抜けた頃だからか、河川の側路には燕尾服の男性と日傘にドレスの女性の散策が見えた。
周囲からの視線に気付く。
あからさまに迷惑そうなそれ。
先程の背広を着た者達とは雰囲気がかなり違う、生粋の上流階級者達が持つ雰囲気に、自然と側路から路肩へと足を向ける。
側路、路肩、街側に近づくにつれ、服装のグレードが色分けしたかのように変化している。
あぁ、身分によって道路が無言のうちに区分けされているのか。
側路は上流階級、路肩が中流階級、街側が貧困層といった処か。
納得した。
如何にも田舎から出てきたばかりのお上りさん、そんな俺が側路を歩くのはさすがに場違いと見做されたのだ。
実際のところは、現時点では問題ないとはいえ、見た目はアウトだろう。
余計な波風を立てるのは、今後においても得策とは思えなかった。
散策をあきらめて、おとなしく目的地へと、足の速さを小走りへと変えた。
セーヌ河から少し入った処、天国通りと標識のかかった正面角に、目的地はあった。
「ここ、か?」
思わず戸惑いが漏れる。
見上げた建物の看板には、『ボナシュー雑貨店』と記されていたからだ。
ヴァンタール商会に仲介を依頼したのは、自身が拠点とする下宿先だ。
雑貨店ではないのは確かである。
紹介文と、地図を念入りに確認する。
住所に間違いはない。
まぁ、紹介先のオーナーの名がジャック・ボナシューだから、何らかの関係はあるのだろう。
一息つく。
意を決して、店に入ることを決めた。
カラン。ドアベルの音と乾いた染料の匂いが俺を迎えた。
外からはわからなかったが、店内は意外に賑わっていた。裁縫関連を主に扱っているようで、布、糸、針が目につく棚に置いてある。
「いらっしゃい。何かお探しで?」
恰幅のいい人の好さそうな笑顔を浮かべた男性が、声をかけてきた。
店内に男性は彼一人。身形から店主と想像がついた。
「ジャック・ボナシューさん?」
「えぇ。
――どちら様でしょうか?」
雑貨目当ての客ではない事に気づいたのだろう。
目尻が怪訝そうなそれに変わった。
「エヴァンです。
――ヴァンタール商会の紹介を受けました。
話は通ってるはずです」
「あぁ! 貴方が。
話は聞いています。
此処は少し入り組んでいますから、到着は少し遅れると思ってましたよ」
差し出された手を、握手で返す。
店持ち商人特有の労苦を知らない柔らかな手が、笑顔とは裏腹にやり手の人物であることを伝えてきた。
紹介文を受け取り、封蝋を確認する。
「確かに。部屋に案内します。
――マーサ! 店番を頼む!」
奥さんだろうか、バックヤードから出てきた同年代の女性に店番を頼み、店を出て裏手に回る。
「貸す部屋は、私と妻が住居に使っていた部屋なんだが、川向こうにアパルトメントが取れてね、これを機に住居だけ移る事にしたんだ」
「セーヌの向こうって事ですか?」
「暗黙の了解ってやつかな。
セーヌ河の向こうが、中級市民以上の住居と見做されるんだ。
こちら側は、所謂、スラム地区でね。治安もそうだが帝都内での市民権に関して、無視される傾向にあるんでね」
金属製の外階段を登って店舗の2階へ。
案内された部屋は、小さな窓と天窓のついたキッチン・トイレ備え付きの一部屋だった。
想像してたよりもずいぶんといい部屋だ。
「どうだい?」
「最高ですね。キッチン付きなのが特に。
…シャワーは?」
「川向うならともかく、こちらでそんな贅沢設備は望めんよ。
少し歩いたところに公衆浴場がある。後は水で身体を拭くぐらいかな」
シャワーは、最近普及し始めた最新設備の一つだ。願望込みでの問い掛けなので、残念には思わなかった。
しかし、都会の一室で夜景をバックにシャワーという、近代小説の描写に憧れがあったのも事実。
何時かはそいつも手に入れてやると、密かな野望を改めて胸に誓う。
「下宿代は、週6ソル。月払いなら1リーヴルで構わないよ」
この設備で考えるなら、立地を考えてもかなり安い。
弱みになりそうだから言わないが、俺の懐具合は、胸を張れるほどではないのだ。
ざっと脳裏で試算する。職無し、食事込みで都会で生存できる猶予は、3ヵ月といった処か。
「…月払いで契約します。払いは現金ですか」
「一応、こっちは銀行口座あるから引き落としも可能だけど、エヴァン君は市民権持ってないだろう?
口座を作ることがまだ無理なんじゃないかな?」
現在でこそ一般市民にも普及しているが、銀行はある程度の地位か資産を持つ者を優先する。資産もそうだが、地位を保証するための市民権もないのならお話にもならない。
銀行は資本主義の権化たる存在だ。しかし、安全に資産を管理できる施設と云う観点からは今後活動するうえで利用は必須のサービスの一つだった。
本来なら銀行の口座を作ることは俺には難しいはずだが、幸いにもまだ貴族籍にその身を置くことを許されている。
貴族の身分保障と優先権は、身分順に与えられる。カステルモール家は騎士爵だが多少の保証と優先権は与えられる。
今後必要になる銀行口座を、早急に確保できる手段はあった。
「…暫くは無理でしょうが、近日中には市民権も口座も取得できるかと。
その時は、変更お願いします」
「判った。
――それじゃあ、これから宜しく」
エヴァンから支払われた金貨をエプロン奥に仕舞い、部屋の鍵と引き換えに再度握手を一つ。
それだけで契約は成立して、その部屋は俺の部屋となった。
TIPS
仏蘭西で使用されている貨幣単位について、
小単位=ドゥニエ
中単位=ソル
大単位=リーヴル
となっています。
貨幣の単位は変則的で、240ドゥニエ=1ソル 20ソル=1リーヴル
となっています。
貨幣価値ですが、現実の史実においては非常に変動しやすく、現代の円に当て嵌めると1リーヴルが4万円~8万円と恐ろしいくらいの変動ぶりを見せていたようです。
これは、所領持ちの大貴族が自身の領地で好き勝手に個人の貨幣を発行していたためで、貨幣の信用が落ちていたためだと思われます。
今作に於いて此処までの貨幣価値の変動を取り入れてしまうと、産業革命と云う設定自体が破綻してしまうため、すっぱりと無視させていただきました。
現実にはもう少し高値にはなりますが、1リーヴルは約4万円で固定していると考えてください(考えるのがめんどくさくなりました)。