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「不安なんです。皇太子であられる殿下が、わたくしなどと本気で婚約したいはずがない。一時の、気の迷いなのではないかと」
「……なるほど。それで素直に喜べなかったのですね」
納得したように頷き、ルドルフが紅茶を一口含む。その様子に少々の罪悪感を覚えつつ、マシェリも紅茶のカップを手に取った。
(『なんなりと』と言われても)
皇太子との婚約を円満に破棄する方法など、皇帝に忠誠を誓った騎士に相談できるはずがない。
だが、真の狙いを隠して駒にするなら、ルドルフの立場はマシェリにとって非常に都合がいい。騎士は城内の警護にあたるため、皇太子であるグレンの事はもちろん、城の内部事情にも詳しいはずだ。
(でも官僚ではない。ビビアンや大臣達とのつながりは薄いはず)
特に、あの黒い顔の宰相には気を付けなければ。
今日会ったばかりで、言葉はさほど交わしていない。だがなんとなく──彼は、父と同じ類の人間に見えた。
人が話す言葉の、違和感や僅かなずれも見逃さない。財務官時代、マシェリの父はその鋭い耳と目をもって、不正の未然防止に努めていた。
確信はなく、ただの勘だが……念のため、接点はできるだけ少なくした方がいい。
「殿下の本心……一番お詳しいのは、おそらくビビアン様でしょうね」
ふむ、と顎をさすりルドルフが呟く。
早くも駒が勝手にマスを飛び越しかけ、マシェリは慌てた。
「だ、大丈夫ですわ、ルドルフ様。わたくし、まずは自分で殿下に確かめてみます」
「ええ? でもそんな、無理しなくとも」
「無理なんてしておりません!」
マシェリは勢いよく椅子から立ち上がると、ばん、と両手をテーブルについた。
「わたくし自ら、白黒はっきりつけてまいります!」
胸の中がもやもやしてるのは確かだった。
その気持ちに嘘はない。──だから、脳裏をかすめた『またか』という父の嘲笑はとりあえず頭の隅にでも追いやっておく。
「分かりました。それでは今回、私は口をつぐんでおきましょう」
両手に紅茶のカップを避難させていたルドルフが、苦笑いでマシェリに応じる。
「ええ、そうして下さいませ。……ルドルフ様、今日は色々とありがとうございました」
「私の事は、どうかルドルフとお呼びください」
緑色の瞳を細め、騎士が優しく微笑んだ。
翌日、太陽がちょうど真上にきたころ、調度品を乗せた荷馬車が城へ到着した。
それをいち早く報せに来たのは宰相のビビアンだった。昼の明るい日差しの下でも、やっぱり顔が黒い。
「お支度が整いましたら、三階へお越し下さい」
挨拶もそこそこに、それだけ告げて去っていく。
昨日も思ったが、ビビアンの態度は実に素っ気なく、冷ややかだ。それがマシェリに対してのみなのか、元々の性格なのかは分からない。
だが、もしもビビアンがマシェリを嫌っているとしたら。
理由ならふたつほど心当たりがある。
そのうちひとつは昨日の、皇太子であるグレンに対するマシェリの無礼な振る舞いだ。表面上は何食わぬ顔をしていたが、黒いこめかみがピクピクしていた。
実は相当、腹に据えかねていたに違いない。
もうひとつは──おそらく、マシェリの身分に関することだろう。
皇太子の婚約者が、公国の伯爵令嬢ではつり合わない。皇帝があっさり認めたりさえしなければ、成立するはずのない婚約だった。
しかしこれは彼の宰相という立場からくるもので、マシェリを嫌いというのとは、また別の話なのかもしれないが。
側近の姿はないし、帝国で皇帝の次に権力を握っているのは、間違いなくビビアンだ。
(水脈のこともあるし、下手に目を付けられないよう気をつけなくちゃ)
「こちらですわ。マシェリ様」
侍女のターシャの案内で三階へ向かう。
長い回廊の突き当たりのドアから、屈強そうな侍従が数人、ぞろぞろと出てくるのが見えた。届いた調度品を運び終えた所らしい。
「ご苦労様」
すれ違いに声を掛けながら、奥へ向かって進んでいく。ドアの前にいた二人の若い近衛兵が、マシェリを見るなり「おめでとうございます!」と頭を下げてきた。どうやら謁見の間でグレンと婚約した際、拍手をした中にいたらしい。
きらきらした目でこうもお祝いの言葉を並べたてられると、なんだかだんだん申し訳なくなってくる。とりあえず笑顔で応えていたマシェリだが、内心かなり複雑だった。
(絶対、口が裂けても言えないわ。実は皇子様との婚約破棄を狙ってます、だなんて……!)
マシェリたちは中へ入ると、さほど広くない二つの部屋を通り抜け、一番奥の寝室へと向かった。
薄暗がりの中、ひとつの人影が動く。
「マシェリ? 随分遅かったね」
やや高めの男性の声。目を凝らしてよく見てみれば、それは侍従の仕事着姿で振り返ったグレンだった。
広々とした寝室の真ん中、天蓋付の豪華な寝台の脇に立っている。その手にはなぜか折りたたまれたシーツ。それを見て、マシェリはサッと青ざめた。
「い、いったい何をなさってるんですか? 殿下」
「なにって……見て分からない? ベッドメイクだよ。やらなきゃ君、今晩寝られないじゃないか」
さも当然のように言い放ち、鼻歌まじりにシーツを敷き始める。ハッと我に返ったターシャが、グレンを止めるもあっさり断られてしまい、半ベソですごすごとマシェリの元へ戻って来た。
ターシャの肩を抱いて慰め、大きく息を吐く。
「殿下。それはもうターシャに任せますから、執務に行って下さいませ!」
つい強い口調で言うと、シーツの端を持ったまま、グレンが固まってしまった。
涙を拭ったターシャがカーテンを開く。
俯いたままの、グレンの黒い瞳はひどく翳っていた。
「迷惑だったんだね。……ごめん。僕は出て行くから」
ぽつりと言ってシーツから手を離し、マシェリのすぐ脇をスタスタと通り過ぎていく。グレンを間近で見たマシェリは、思わず目を見張った。
白い頰に、黒い煤汚れがこびり付いている。
よく見れば着ているシャツもズボンも埃まみれで、汗もにじんでいた。
もしかしたら、侍従と一緒に調度品運びもしたのかもしれない。今日からここで暮らす、マシェリの為に。
「後はよろしく頼む」
ターシャに声を掛け、グレンがドアへと向かう。
その背中を、マシェリは無意識のうちに追いかけていた。思い切って手を伸ばし、グレンの腕にしがみ付く。
「待ってください、殿下!」
「マ、マシェリ? いったいどうし」
グレンが、狼狽えた声を上げる。
もしやと思い見上げれば、ぱっと顔を逸らす。──が、真っ赤な耳は隠せない。
(まさか……照れてる?)
マシェリは目をまばたかせた。
「殿下……」
「離してくれ」
グレンがマシェリの腕を振りほどく。その頰からはもう、赤みが消えていた。
「ほんとは君も、僕と一緒にいるのが嫌なんだろう? 無理しなくてもいいよ、慣れてるから」
「なっ、なんで、そこまで大袈裟な話になるんですか? 意味が分かりません。嫌でも、迷惑でもありませんから。誤解なさらないでください、殿下」
「だって君は冷たすぎる。せっかく引っ越しの手伝いをしにきた婚約者を、さっさと仕事に行けって追い出すなんて」
「そ、それ、は……」
マシェリがぐっと詰まる。
当たってるだけに言い返せない。自分でも、もう少し言い方を考えるべきだったと反省していた。
「ああ、傷ついたなあ。今夜は寝つけないかもしれない」
大仰にため息を吐いた皇子様が、ちらりとマシェリを見る。
なんだか嫌な予感がした。
「責任、とってくれるよね? マシェリ」