26.霹靂
(クク、もう砦を越えるのかしら)
まだ馬車が動き出してもいないのに。
けれど戸惑う間もなく、上空に漂う霧の中へと赤い鳥が消えていった。
「どうした? 小娘」
「ククがもう行ってしまったんです。こんな事、初めてだわ」
「たぶん目標物が近いんだろう。そういえば、奴には一体何を探させてたんじゃ?」
「目標……」
マシェリは馬車の屋根に留まる、白フクロウをちらりと見た。
ウィズリーは中立派で、魔王とマシェリとの結婚は個人的には反対だと言っていた。しかし、その立場は魔王の側近。婚約を解消するため水竜の亡骸を探していることは、何となく打ち明けづらい。
(まあ、着けばどのみちバレるかもしれないけれど。ここはひとまず、もう一つの理由を使っておくとしましょう)
「わたくしは花を探してますの。葉が薬になる魔花なんですけれど、ウィズリー様は何かご存知ないかしら?」
どうにか自然に言えた。やや得意げに振り返るも、ウィズリーは全くの無反応。首を傾げることすらせず、くるりと砦のほうを向く。
「まずいな。魔王城から出した馬車を追わせていた、ハリスたちの気配が途切れた」
「ハリス? ……どこかで聞いたような名ですわね」
「昏き森で偵察部隊の隊長をしている、魔物の名前じゃよ。……どうやら、身代わりがバレてしまったらしい」
細めた赤い両眼が、鋭く光る。
大きく広げた真っ白な翼に、いくつもの火花が散った。
「ウィズリー様? 身代わりって、何のことを」
「いいから馬車に乗れ! 小娘。緊急事態だ」
「おやおや。どうなさったのです? ジェネフィス卿。そんなに慌てて」
傘を手にふわりと屋根に降り立ったのは、白い髪に白い服。白いシルクハットを被った男。
細く長い指先を伸ばし、ウィズリーの首を素早く掴む。
「ウィズリー様!」
「貴方という方は全く、手の込んだ偽装工作を思い付いたものだ。偵察隊の魔鴉に偽者を乗せた馬車を追わせるとはね。おかげですっかり騙されました。わたしの優秀な部下が念のためと髪を暴いてみなければ、気付けないところでしたよ」
「貴様……! どうやって魔界に戻って来た? 最終列車は……席、が取れなかったはず」
「どうやって? あの程度のトンネル、たやすく抜けられるのですよ。わたしほどの魔人になれば、ね」
男の手が一瞬光り、ウィズリーが純白の鳥カゴに閉じこめられる。
それはまさにあっという間の出来事だった。
三日月のような細い目で、にたりと嗤う。この顔、この上から下まで白一色の格好は、ルシンキの駅で深紅の花束をくれた紳士だ。
「貴方は誰? ウィズリー様をどうするつもりなんですの?」
「わたしは北砦の番人にして魔王様の従者。ヤヌシュ、と申します。以後お見知りおきを。ああそれと、ジェネフィス卿の処遇については、貴女には関わりのないこと。よって、答える義務はありません。あしからず」
流れるように言い募り、白いマントで鳥カゴを覆う。翻った時、そこにウィズリーの姿はなかった。
次にカゴを消し、ヤヌシュが屋根を蹴って飛ぶ。マシェリは咄嗟に、シュカとサラを抱えたまま馭者席を飛び降りた。──今すぐ、この男から逃げなければ。
それはほとんど、本能のような感覚だった。
「貴女がもし逃げたら、あの少年を殺しますよ」
耳元で囁く声にハッとし、思わず足を止める。深い霧の向こうから、駆けてくる足音が聞こえた。
「あっ、マシェリ様。もうすぐ開門ですよ! おーい!」
「リダ……!」
「いたいけな子どもの命を、目の前で奪われたくはないでしょう? ……ねえ? 赤髪姫」
そう言ってマシェリの肩を掴む手は、氷のようにヒヤリとしていた。
「では、この部屋でごゆるりとお休みください。赤髪姫」
ヤヌシュに案内されたのは、砦の最上階にある小部屋。
鉄格子付きの小さな窓が一つあるだけなので、昼間なのに中はけっこう薄暗い。粗末な寝台とテーブルセット。それと床に敷かれた絨毯以外、調度類もほとんどなく、剥き出しの石の壁や天井がより一層冷たく感じた。
壁に剣掛けがあるところを見ると、砦の兵たちが宿直や仮眠用として使っている部屋らしい。
ドアの小窓越しに見える灰色の目を、キッと睨む。
「わたくしを、どうするつもりなんですの?」
「別に危害は加えません。貴女はただ、時がくるのをここで待っててくだされば良いのです」
「……時?」
「ええ。人界からノコノコとやって来て、身の程知らずにも魔王様に賠償請求するなどという愚行に及んだ。フランジアの人間二匹が、自分らの巣に戻る期限が過ぎるまでです」
フランジアの人間。数え方はともかく、グレンとビビアンのことで間違いないだろう。
ふたりの話をするヤヌシュの目や声には、明らかな嫌悪が滲んでいた。
「貴女は魔王様の、大事な大事な花嫁。あんな虫けらごときが婚約者を気取るなど、片腹痛い」
(この男、もしや王族か)
魔王と赤髪姫の結婚、ひいては自分たちの地位の存続を望んでいる、いわば保守派。──となると、『危害は加えない』という言葉だけは信じてもよさそうだ。
ならば、駆け引きの材料はある。
マシェリは、チラッと背後のテーブルを見た。
「リダは、ちゃんと帰してくださるんでしょうね?」
「……そうですねえ。ま、砦の見張り兵の話だと、あの少年は相当な守銭奴のようですし。金で口は塞げそうですが……何しろ雇い主が雇い主だ。それだけでは、少々危なっかしい気もいたしますね」
「わたくしには、貴方のほうが数段危なっかしく見えますわ」
「それはどうも。わたしたち魔人にとって、この上ない褒め言葉だ」
(つまり、どう転んでも危険人物)
のらりくらりと明言を避けるのは、初めから、こちらの希望に沿うつもりなどないからだ。
頼み事では埒があかない。マシェリはテーブルに置かれた花瓶を掴むと、高く掲げて床に落とした。
派手な音とともに、ガラスの花瓶が真っ二つに割れる。
「! 何をする」
「もう一度言います。リダを今すぐ解放なさい」
言いながら、出来るだけ大きな破片、と選んで拾う。ハンカチもシュカにあげてもう無いので、素手なのが少々心許ない。
だが今は、腕にしたたる血の一滴も交渉の手札になる。マシェリは、尖ったガラスを自らの喉元に突きつけた。
「でなければ貴方の砦で、この首を掻っ切って差し上げてよ? ヤヌシュ様」