25.北の砦
北のはずれの小さな石造りの砦。辺り一面を真っ白な霧が覆い尽くし、空なのか地なのかすら曖昧な景色が広がっている。
それは魔界の南北を縦断する、長い長い水路の始まりの場所だった。
「ウィズリー様。いましたわ、クク。砦の門前にある噴水の、上から二番目の皿のところに留まってる」
馬車からはまだ少し遠い、ほぼ白一色の視界の中に、ポツンと一羽。赤い鳥の姿が見える。
とても分かりやすい。
白フクロウは指差すマシェリの肩に舞い降りると、赤い眼をぱちぱちとまたたかせた。
「ふむ。完璧に先回りしとるな。どうやら、お前さんの勘は正しかったようだ」
「当然です。だからこそ、リダのまわり道に気付いたんですもの」
水竜の捜索を終えて戻ってきた使い鳥のククは、シュカの道案内を待つことなく、馬車の行く先をどんどん追い越していっていた。だがリダが同じ道をぐるぐる回っている時だけは、道の端にある大岩や灯りの実のなる木等々。目立つ場所に留まり、馬車が正しい進路に戻るのを、じっと待ってくれていたのだ。
(そのおかげで二つ、気付いたことがある)
リダがわざと遠回りをしていること。そしてもう一つは、シュカの目的地とククの向かっている場所が、同じ方向にあるのだろうということだった。
「リダにお金を渡したのって、ウィズリー様がさっき話してらした、改革派の仕業かしら。わたくしの登城を邪魔しようとした、とか?」
「……。いや、奴らはそういうまどろっこしい手段は使わん。やると決めたら、真正面からお前さんを掻っ攫いに来るだろう」
「そう。……シュカの旅の終着点まで、無事に辿り着けるといいけれど」
ストールにくるんだシュカの、スヤスヤ眠る幼い寝顔を見下ろす。
馬車の中で倒れてから約三十分。半透明だった体は、ほとんど色を取り戻していた。
その胸でうたた寝していた黒い子猫が、ピクピクと片耳を動かす。
「ご苦労さま、サラ」
「影猫のほうに余力があったのは幸運じゃったな。精霊同士、分け与えた魔力の相性も申し分ない。砦を越えたらしばらくは一本道だし、今のうちにふたりとも体力回復させておけ」
「ええ。ありがとう、ウィズリー様」
「ホントにすんません……猛省してます」
馭者席でひとり重い空気を背負い、額に汗をダラダラかきつつ手綱を駆る。リダがやらかした罪は罪で変わりないが、こうも憔悴し切った姿を隣で見せられ続けると、さすがに気の毒になってきた。
「反省してると言うのなら、次にわたくしを馬車に乗せた時、扉くらい開けてちょうだい。紳士らしくね」
「……えっ? つ、次って、俺……こんな最悪なことしたのに、まだ使ってくださるんですか?」
「許すとは言ってないわ。でも、貴方の雇い主であるフランジアの陛下は、一度くらいの失敗でひとを見放すような御方じゃない。挽回の機会を与えてくださる方だもの。だから、わたくしの勝手な判断で『許さない』なんて言えないんですのよ」
その境界線は明白にしておくべきだ。
いつもの調子で言い切ると、一瞬明るくなったリダの顔がどよんと曇る。
「……それってつまり今のところは、ってことですよね」
「ええ。だけどもちろん、貴方がきちんと反省し、謝罪したことは伝えておくわ」
「! あ、ありがとうございます! マシェリ様」
しゃきんと姿勢を正し、目を輝かせる。やっぱり憎めない男だ。鼻唄を始めた横顔を見て、マシェリはふっと微笑んだ。
「……いい、君主になったのだな。カトゥール王子は」
「ウィズリー様、陛下のこともご存知でしたの?」
「ああ。若い頃から知っとる。水竜王子と同じく剣の腕が達者な上、頭の回転が早く行動力もあってな。世界中を駆け巡り、他の国々の情勢をよく見聞きして回っていた。外交手腕にも長けとって、先代魔王のハキト様が会うたび感心しとったよ。うちの馬鹿息子に、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい、と」
「……馬鹿息子……?」
「皆まで聞くな。それはハキト様だけでなく、魔王様自身も薄々は感じてらっしゃることなのだ」
世界で一番魔力が強く、その感情は天候にまで影響を及ぼす。居並ぶ者など誰もいない、何千年と生きてきた赤竜の化身。
絶対的な力を持つ魔界の王。
彼は自分より力の劣る先王の言葉に一切耳を傾けず、また、彼が真摯な言葉を向ける者も誰一人としていなかった。
「……幼女趣味ってだけじゃなかったんですの? 問題は」
「むしろ問題はそれ以外にある。じゃからわしは中立派なんじゃ。……さっきの話の続きじゃないがな。魔王様には結婚し、世継ぎをもうけて幸せになって欲しいという願望はある。じゃがあの御方は、精神的な部分でまだまだ未熟。魔界の未来を思えば、改革派の訴えも捨て置けん側面があるんじゃよ」
深いため息をつく白フクロウの背に、並々ならぬ哀愁が漂っていた。
人界に住む者たちは、役立たずの雨季に悩まされてばかりいる。だが魔界のように雨がたっぷり降ったとしても、終わりの見えない苦悩というものもあるらしい。
(世界の情勢、か)
グレンの妃になるのなら、それはマシェリにとっても決して無関係な話ではない。
国王がルシンキ公国への同行をマシェリに命じたのも、何か意図があってのことだったのだろうか。
よくよく考えてみれば、自分はまだ、他の公国のほとんどを本で得た知識か、聞いた話でしか知らない。
「どうかしたか? 小娘」
「……いえ。わたくしも、魔王様との結婚をお断りする以上、それ相応の淑女にならなくてはと思い至ったまでですわ」
「そうはっきり言ってくれるな。わしはともかく、お前さんを是非とも魔王様の花嫁にと望む輩は、魔界中にうじゃうじゃいるんじゃから」
『うじゃうじゃ』と聞き、つい空を見上げる。
が、白い雲のような霧しか見えない。一羽も追ってはこなかったか。ホッとしながら前を向くと、ククのいる噴水が目と鼻の先まで迫っていた。
「ここで一旦馬車を停めて、砦の番人に開門を頼んできます。水路も封鎖しないといけないので、少し時間がかかるんですけど」
「少しって、何分くらい?」
「たぶん十分くらいで終わります。俺がひとっ走り行って来るんで、マシェリ様たちはここで休んでてください」
そばかすの顔でニカッと笑い、霧の中に薄っすら見える砦に向かって走り出す。
(あんなに急いで、転ばなければいいけれど)
心配しながらリダの背中を見送っていた時、噴水に留まったククが、不意に空へと飛び立った。




