22.シュカ
大きく木が揺れ、雨しずくと木の葉がパラパラと落ちてきた。
ついでに、
「ぴゃっ!」
という声と、小さな影。
猿も、いやフクロウも木から落ちるか。慌てて受け止めると、予想に反して手足付きだった。
結い上げた髪も服も、マシェリを見てぱちくりさせた目もぜんぶ緑色。ギザギザの葉の形をした髪飾りだけが朱色の、二、三歳くらいの女の子。
(……人? それとも魔物、かしら)
「ごっ、ごめんなしゃい。あああのっ、わたちは大切なお遣いの途中なのでっ、そのっ。お、おろして……くだしゃい」
「え? あっ、ごめんなさい」
真っ赤な顔で懇願され、ついつられて頰を赤らめる。──可愛い。
やけに軽いし、体が僅かに光っているところをみると、少なくともただの人間ではなさそうだ。
いずれにせよ、ウィズリーに聞けば分かるだろう。そっと地面におろすと、小さな水溜りに足がついた。
「ひゃっ! み、みず。水はダメでしゅ!」
「ああ、裸足ですものね。でも雨が降ってるから、地面はどこも濡れているのよ」
「……そう、でしゅか」
「もう少し、わたくしの腕で雨宿りしていく?」
「はっ、はい! ……よろしく、お願いしましゅ」
頭をペコリと下げ、おずおずと小さな手を伸ばしてくる。その肘に、僅かに血が滲んでいた。
(さっき、枝か何かで擦りむいたんだわ)
罪悪感で胸が痛む。急いでハンカチを出し巻いてやると、女の子がじぃっと見つめてきた。
「これ、お姉しゃんのお名前でしゅか? ふたつもありましゅ」
「いいえ。わたくしはね、マシェリというの。この刺繍はわたくしの愛する方の、大切なお父様とお母様のお名前なんですのよ」
「お父しゃんとお母しゃん……大切、なんでしゅね」
「ええ。……そうだ、貴女のお名前はなんておっしゃるの?」
「お名前……。シュカ、でしゅ」
語尾のクセを予測していたのか。かなり先見の明のあるご両親だ。
ハンカチを結び、シュカを再び抱き上げたところにバサバサと羽音が近づく。
「わしは知らん」
「知らんって、ウィズリー様はこの森の番人なのでしょう?」
「知らんと言ったら知らん。おそらく精霊の一種じゃろうが、魔眼のほうにも反応がないしな。何より気配が弱々しすぎる」
「弱々しい?」
「生まれたばかりか死にかけか。どちらにせよ、そいつは長くは保たん。放っておけ」
「お断りいたしますわ」
怪我人、それもこんな小さな子どもを、魔物だらけの森になど捨て置けるか。
雨が弱まったところを見計らい、マシェリはさっさとシュカとともに馬車へと乗り込んだ。
「シュカ。もしよろしければわたくしに、貴女のお手伝いをさせてくださらない?」
「……え……」
不安で光の揺れる瞳。
テラナ公国に置いてきて久しい、三歳下の妹を思い出す。
(サマリー、また薔薇の棘を触ったりしてないかしら。何もないところで転んだり、迷子になって……ひとりで泣いてたりはしないかしら)
いつも、心配と不安ばかりが頭をよぎる。──やっぱりダメだ。隣に腰掛けたシュカの手をきゅっと握り締める。
「嫌ならせめて、この森の外まで送らせて。でないと、わたくしのほうが心配で帰れないの」
「ふぇっ? あ、あああのっ、その」
「なんじゃ、そいつを口説いとったのか? 悪趣味だな小娘」
脚で器用に扉を開け、ウィズリーも馬車に入ってくる。からかい口調だが、不機嫌ではなさそうだ。
これならきっといける。咳払いを一つし、きちんと座り直す。
「いいえ。わたくしが口説きたいのはウィズリー様だけですわ」
「ほう。悪寒がするな」
「まあ大変! 魔王城まで送り返し、もといお送りいたしましょうか? もちろんウィズリー様お一人だけですけれど」
「ほほう。……ああいかん、鳥肌まで立ってきた」
「それは元からじゃありませんの」
つい冷め切った口調でつっこみ、ハッと口元を押さえる。
よりにもよって自爆とは、まだまだ修行が足りないようだ。ガックリ落としたマシェリの肩に、ウィズリーがふわりと留まる。
「心配するな。下手な小芝居などせずとも、そいつはちゃんと送ってやる」
「! よろしいんですの? ウィズリー様」
「もしダメと言ったら、そいつと一緒に歩いて行くつもりだったろう。お前さんを放っておいたら、魔界が洪水になりかねん」
窓の外には再び、大粒の雨が降り始めていた。
魔界の天候は魔王の心を映す鏡。
ふと、魔王城に向かうグレンとビビアンの後ろ姿が思い浮かぶ。
心配だが、不安は微塵もよぎらなかった。
「あら。わたくしには、恵みの雨にしか見えなくってよ?」
「なるほど。感じ方は、生きてきた環境によって変わるか」
「雨……マシェリしゃんは、好きなんでしゅか?」
魔本をよいしょと膝に乗せ、シュカが潤んだ瞳で見上げてくる。
マシェリはその皮表紙と、お団子頭を順番に撫でた。
「もちろん好きよ。だって水は、すべての生命の源だもの」
「……いのち……」
「ほう。好きなのは、『水』で良かったのかの? 小娘」
「ええ。これ以上の言葉を引き出したければ、殿下と帰国後、フランジアの王城までお越しくださいませ。ウィズリー様」
きっと、魔王城でその言葉を告げることは永遠にない。
雨を縫うようにして飛び回る、紅い影を目で追いながら、マシェリはふっと微笑んだ。
雨なのに、気分はなんだか晴れ晴れとしている。
「風船が舞い戻ってきたようじゃな」
「気付いてらっしゃったの⁉︎」
「ただの独り言じゃ。そいつを送るにせよ、どこかに寄り道をするにせよ。ここにいるより、馭者席にいたほうが都合がいいと思うがな。わしは」
「……! ありがとうございます」
「礼などするな。これはあくまで独り言なんじゃから」
くるりとそっぽを向いた顔が、少し照れているように見えた。
「独り言ですが、ウィズリー様とこの森で知り合えて本当に良かったですわ」
「シュ、シュカも」
「は⁉︎ なんでお前がそこに出てくる!」
再びくるりとこっちを向く。慣れはしたが、不意打ちで見るとやっぱり不気味だ。
「……シュカ、雨もお水も大好きだけど、触っちゃダメで。マシェリしゃんが連れ出してくりぇて、フクロウしゃんが馬車に乗しぇてくりぇなかったら、今ごろ一歩も動けなかったでしゅ。だから……ありがとうございましゅ」
「シュカ……」
椅子に正座し、ぺこりと頭を下げる。
赤い眼を大きく見開いたウィズリーは、「勝手にしろ」とぼそりと呟き、窓の外を眩しげに見上げた。