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グレンが一枚の書状をマシェリに差し出す。
「証明書だ。サインももう済ませてある」
「あ、ありがとうございます……殿下」
麗しい笑みを浮かべたグレンと書状の間を、マシェリの視線がいったりきたりする。手を出そうか出すまいか。市場で買い手を選ぶ時とよく似た緊張感だった。
どうにも胡散臭すぎる。執務室ではあれだけ無愛想だった皇子様が、なぜ今マシェリの前に天使ばりの笑顔で立っているのか。
しかしこれを受け取らなければ、この皇城に来た意味がない。テラナ公国の水脈の開放は、この証明書をもって果たされる約束なのだから。
(何を怯えてるの、マシェリ・クロフォード……! こんなのただの紙きれじゃない)
こくんと喉を鳴らし、マシェリがそろそろと手を伸ばす。すると、指先が触れる前に書状が真っ二つになった。
唖然とするマシェリの前で、グレンが書状を細かく切り裂き、花びらのように撒き散らす。
「な、何をなさるんです!」
「ああ、すまない。どうも力を入れすぎたようだ」
ちっともすまなそうに見えない顔で、グレンが口先ばかりの謝罪をのべる。マシェリはもう一度襟首を掴み、色々な意味で再起不能にしてやろうかと思った。
しかし、グレンの背後に神官が立っているのを見て思い留まる。さすがのマシェリも、神に仕える方の前で手は上げられない。
その上神官の隣に、何故かどんよりした顔のビビアンまで立っている。真っ黒なだけに顔色は分からないが、具合でも悪いのだろうか?
怒りと疑問が入り混じった、複雑な表情でマシェリが立ち尽くしていると、床に散らばった紙吹雪の上にグレンが跪いた。
今度は何をする気かと、唇を噛み身構える。
「これを君への〝断罪〟としよう」
「あんまりですわ。水脈の開放を取り消すなんて。罰を与えるなら、わたくしひとりにして下さいませ」
「もちろん、そのつもりだが」
「でも、さっき証明書を──」
「コレは妃候補の証明書だ」
床を指差し、グレンがにっと笑う。
その瞬間、急に何もかもが冷めた。──ああ。何だ、そういう事か。
神官もビビアンも、立会人だったのだ。皇帝は見るというより退屈そうな顔で眺めているだけのようだが、それでも居ることにかわりはない。妃候補としての身分を剥奪する条件は揃っていた。
これでマシェリをやり込めたつもりなのか。
あの皇帝の息子にしては案外かわいげがあるじゃないかと、つい口端が上がる。
「何を笑う?」
「とんでもない。涙を堪えていただけですわ」
冷ややかな素顔に淑女の笑みを貼り付ける。
いっそ涙の一粒でも流せたら、皇太子の自尊心も満足させられただろうに。だが生憎マシェリはそんな手管を持っていない。強がってるそぶりを見せるのが精一杯だった。
後は波風立てずに退場するのみである。
皇帝に挨拶したあと、登城の証明書を貰って帰ろう。マシェリは失礼します、とグレンに軽く辞儀をし、その場を立ち去ろうとした。
が──その手をガシッと掴まれる。
「どこへ行く。僕の話はまだ終わってない」
振り返ったマシェリの視線が、熱を帯びたグレンの眼差しと出会う。
「赤髪の姫君、マシェリ・クロフォード。貴女に結婚を申し込む」
「……は⁉︎」
つい気の抜けた声で応えると、すぐ前方から殺気を感じた。
慈悲深く笑う神官の隣で、小箱を持ったビビアンがマシェリを凝視している。
「『は?』じゃありません。返事は『はい』です」
「だ、だってそんな。一体なんの冗談で──」
「冗談などではない」
狼狽えるマシェリの前に差し出されたのは、凝った銀の装飾が施された青い小箱。視線を向けると、パチンと音を立てて箱の蓋が持ち上がった。
出てきたのは湖水の色によく似た、大きな蒼い宝石。中心で金色に煌めくのは、封じ込められた魔力だろうか。まるで風に波打つ湖面のように、光り輝いて見える。
(これって、国宝の蒼竜石⁉︎)
以前母から聞いた事がある。皇帝と、今は亡き皇妃が婚姻の儀を神殿で執り行った際、国宝の魔石が使われたのだと。
もしそれが本当なら──想定外過ぎる冗談だ。ビビアンから小箱を引き継いだ神官の、悟りきったような笑みにマシェリの顔が引きつる。
(ど、どうしてこんな事に……はっ、まさか。髪の色のせい? 皇太子殿下は赤が好きとか釣書に書いてあった気がするし、さっき赤髪の姫君とかなんとか言ってた気もする。こんな事なら、髪を染料で真っ黒にでもしてくれば良かった!)
そこまで考えて──自分の釣書に髪の色が明記されてた事を思い出した。
なのに謁見の間に現れなかったという事は、釣書を全く見ていなかったか、見た上で興味が持てなかったか。そのどちらかしかない。
(いやこれ、確実に前者でしょう……!)
執務室への突撃は完全にやぶへびだったのだ。
夢なら早く醒めてほしい。頭を抱えたくなったマシェリだったが、グレンにがっちり掴まれたままの右手に、現実へと引き戻されてしまう。
「我、グレン・ド=フランジアは、マシェリ・クロフォードを妻として娶り、一生をかけて愛し、守り、そして添い遂げる事をここに誓う」
蒼竜石に手のひらをかざしたグレンが、神官の前でためらう事なく宣誓する。
少しはためらえ、と内心歯ぎしりしながら見守っていると、水の魔石に蒼い光が渦を巻きはじめた。
魔力の起こす風に、ふわりとマシェリの赤髪が揺れる。
(皇太子から求婚されれば……言われるまでもなく、返事は『はい』しかないわ。だけど)
マシェリには、テラナ公国にやり残してきた事がたくさんある。
業者との駆け引きは素人並みと父に笑われ、支払いに含まれる高額な送料を見逃すという大ミスもやらかした。薔薇のオイルは試作品をひと瓶作っただけだし、干ばつ対策用にと作りはじめた薬草も、まだ一種類しかできてない。
薬の製造販売に欠かせない薬師を、マシェリの婿養子にするという、一石二鳥を狙った計画も──このままでは、すべて水の泡だ。
(やり残したどころじゃない。まだ、何もできていないもの。皇子様と結婚して、大団円で幕を下ろすなんて、そんなのは絶対に納得がいかない。いいえ、納得してたまるものですか……!)
「マシェリ・クロフォード」
「はい」
神官の声に、マシェリはゆっくりと顔を上げた。
決意を固めた新緑色の瞳が、蒼い光を映し、輝く。
「神の御名に於いて、お二人の婚約を認めます。承諾の証として、この石に左手を」
「謹んで、お受けいたします」
マシェリは光の渦の中に手を差し入れた。少しひやりとした石にそっと触れる。
そこへ、グレンの手のひらが重ねられた。
思いのほかあたたかく、大きな手。少しまめがあり、ゴツゴツしているのは、もしや剣の鍛錬のせいだろうか?
(想像していたより、ちゃんと男の人だったのね)
そう思ったのと、左手に焼ける痛みが走ったのが同時だった。グレンが、マシェリの手を強く握り締める。
さては同じ痛みを感じたのか。美しい顔が歪むのを見て、マシェリは少し嬉しくなった。
「だから、何で笑うんだ? 君は……」
呆れ顔のグレンを聞こえないふりでやり過ごすと、魔力の渦がかすかな風を残して消える。
マシェリは、解放された左手をうらおもて確認し、首を捻った。
(契約の魔法かしら。印は特にないようだけど)
訝しみつつ、グレンとともに皇帝の前まで行き、跪く。鳶色の髭に埋もれた口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
「いいだろう。フランジア帝国皇帝カトゥール・ド=フランジアの名に於いて、両名の婚約成立を認める」
その途端、後ろに控えていた護衛たちから盛大な拍手が沸き起こる。──心なしか、さっき見た時より人数が増えたようだった。
それにつられるように、ビビアンや大臣達もパラパラとした拍手を送る。白髪の神官は穏やかな笑みのまま、ただゆっくりと頷いた。
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