18.嫉妬と束縛
グレンに後ろからリボンを引かれた時、駅で感じた違和感が不意に蘇った。
(赤く、炎みたいに光った屋根。……城の窓から見た列車は、ぜんぶ真っ黒だったのに)
あれはいつ誰が? その答えなど、一つしかない。マシェリが思い至った瞬間、ガクンと寝台が大きく揺れた。
「! なんだ? これは……まさか」
「窓の外が、急に明るくなりましたわ。──きゃっ⁉︎」
今度は部屋ごと激しく縦に揺れる。続いて数回横揺れし、ようやくおさまった時には、ふたりともぐったりと寝台に横たわった。
ひどい船酔いのような感覚で、起き上がれない。
「二重……だった、飛行術式の片方が解けた気配がする。どうも違和感があると思ったら……やられたな。魔王が列車に乗り込んだ、本当の目的はこれか」
「まさか嫌がらせですか?」
「違う。……いや、もしかしたら半分はそうかもしれない。ただしそれは君にじゃなく、僕に対してだと思うけど」
独り言のように言いつつ、前髪をかき上げる。
少し不貞腐れたような表情は、毎夜ウサギを奪い合ってるいつものグレンだった。
窓に立って行ってカーテンを開けると、外の景色はもう、列車を待つ客たちでひしめき合う駅。
ルシンキから最低でも二時間半かかると言われていた列車の旅は、ものの三十分足らずで終了した。マシェリの話を参考にしたグレンの推測によれば、魔王が屋根に仕込んだ別の飛行術式により、大幅に速度が上がった結果らしい。
(あの時走ったのは、術式の発動のためだったのかしら)
自分は、まんまとそれに付き合わされたのか。
なんとも小賢しい魔王だ。ついため息を漏らし、うつむいた頰にグレンの大きな手が触れる。
「ごめんね、マシェリ」
「今度は何の謝罪ですの?」
「男として、と言いたいところだが……僕は少々焦りすぎていたかもしれない。後でもう一回、ケルトの洗礼を受けて頭を冷やすよ」
「……なぜですの? わたくしは絶対、神に懺悔したりいたしませんけど」
祖母がのこした遺言も警告も、幼い頃から常にマシェリの中にある。それでも愛しさを抑えられず、目の前にいるグレンをもっとよく知りたい、すべてを独り占めしたいと思った。
今なら確信を持って言える。自分がこんな感情を抱くなど、グレン以外にはあり得ない。
「貴方を欲しいと望むことが例え罪でも、それを翻すつもりなど、わたくしには一切ございませんもの」
「マシェリ……」
「今度は貴方のほうから言ってくださいませ。殿下」
「……君ってひとはまったく。ああ、もう。こんなだから、理性のタガがぶっ飛びそうになるんだ!」
「──きゃっ!」
頰を赤らめたグレンが、寝台にマシェリを押し倒す。じゃれあいながら抱きしめ合ううち、体中の熱が移って、流れ込んで。ふたりが同じ体温になった。
何度キスを交わしたか、分からなくなるほどに。
「……愛してる」
「別れ際に言うのは、不誠実じゃありません?」
「なら、これが始まりにしよう」
ふたりが存分に別れを惜しみ、身支度を整えて寝室を出たのはそれから約十分後。
居間で優雅に紅茶のカップを傾けていたビビアンは、聞いてもないのに「今来たところです」と、報告してきた。顔色が黒いため、その言葉の真偽は探りようがない。
予定外の速さで着いたためか、列車を降りる乗客たちの流れは至って緩やか。
ブカブカな制服、目深に帽子を被った怪しい車掌が「お客様方、できる限り速やかに下車してください!」と叫びながら通路を進んでいく後ろ姿を、ちらりと横目で見送る。
駅に降り立つと、魔王城からの出迎えらしき人──かどうかは不明だが、赤竜紋の旗を持った男性がひとり立っていた。
ぴょんと一本だけくせっ毛が飛び出た、白い髪に紅い瞳。小柄で、白地を赤で縁取った丈の長い毛皮を纏っている。マシェリたちに気付くと、少女のような愛らしい笑顔を輝かせ、手をぶんぶんと振ってきた。
「おお、久しぶりだな小娘! 水竜王子も。待ちかねていたぞ!」
「……久しぶり? ど、どちら様だったかしら」
「わたしはそのような名の者ではない」
一歩前に出たグレンが、腕で広げたマントの裏にマシェリを覆い隠す。
「人界のフランジア王国よりまいった王太子のグレン・ド=フランジアだ。それと失礼ながら、貴殿の顔に見覚えはない。わたしの大切な婚約者に、気安く話しかけないでいただけるか」
「……やれやれ。大きくなったとたんに可愛げも半減したのう。もし迷子になっても、今度は道案内してやらんぞ」
「……道案内……?」
「何だ、本当に覚えていないのか。わしの名はウィズリー。ウィズリー・ジェネフィス。魔王城を取り囲む防御壁、昏き森の番人じゃよ」
そう言ってカクンと首をかしげると、頭がぴたりと肩についた。人としては有り得ない角度である。
(ウィズリーって、まさかあの時の白フクロウ⁉︎ で、でも、どうして? あのあと時間が巻き戻って、過去が変わったはずなのに)
グレンとの婚約も、フランジア王国が帝国に変わった事実さえ消え失せていた。
魔界に行った過去だけが、変わらぬままなどあり得ない。
グレンの横顔をちらりと見ると、わずかに眉根を寄せている。表情には出さないものの、マシェリと同じ疑問を抱いているようだった。
「申し訳ないが、やはりわたしには覚えがない。貴殿の記憶違いではないのか?」
「覚えてないなら見せてやろう。……と、言いたいところなんだがな。魔王様をあまりお待たせしてしまうと嵐になる。まずはあそこの馬車に乗ってくれ」
「ちょっと待て、あれは本当に馬か? それに、どうして二台あるんだ」
「おや、よく気づかれましたねぇ。これは馬によく似たゼネブという魔物なのですよ」
一枚布を頭から被った怪しげな馭者が、長いたてがみをブラシでとかしながら言う。
「このたてがみには強い魔力が流れてましてね。方角や危険な魔物の感知、水場を探し当てる能力にも長けているのです」
「まあ、とてもお利口な魔物ですのね」
「ふふふ、可愛らしいしょう? ……あ、ちなみに好物は美女の血肉で」
「そうか。なら、君の餌付けは禁止だ」
グレンがマシェリにマントを被せ、そのまま抱きしめてくる。
「食べていいのは僕だけだからな」
蒼い布越しの声が、昨日までとは違う甘さをもって耳に届く。
嫉妬も束縛もたまには悪くない。マシェリは密かに、口元の笑みをかみ殺した。
 




