17.約束
ここを出たら、『禁忌の魔法』についてグレンに直接問いただす。
(最悪、襟首を掴んででも)
決意を固め、マシェリはドアを開いた。
「ごめん、マシェリ。君一人に任せてしまって」
「! で、殿下。その姿は?」
「ああ。ケルトが少し興奮しちゃったみたいでね。ちょっぴり濡れただけだから、大丈夫だよ」
端正な顔立ちの頰から、ポタポタと滴り落ちる水。乱れた黒い艶髪。とどめに、気を失ったケルトを抱く、濡れてシャツが張り付いた逞しい胸。
マシェリは思わずバッと目を逸らした。色気が刺激的すぎて、直視できない。
(……びび、びっくりした。そういえばここ最近の訓練の成果で、だいぶ筋肉が付いてたのよね。知ってはいたけれど、外で改めて見るとドキドキしちゃうわ)
「でっ、殿下も湯浴みされたらいかがです? 水ですけど」
「ありがとう。でも風邪をひくから、気持ちだけもらっておくよ。それに今はケルト優先だ」
「わたくしもお手伝いいたします。……もう、大丈夫よ。ケルト」
「……」
熱っぽいのに青褪めた、柔らかな頰を撫でる。
ふたりがかりで浴室に運び、水に浸けてやると、ケルトはようやくホッとした顔を見せた。
その後──飲み水のワゴンと一緒にビビアンが連れて来た一般客の魔術師に依頼し、まずは魔本から水の精霊イヌルを解放した。クッキーで餌付けしながら事情を説明したのち、熱が落ち着いたケルトとともに再び魔本へ封印。とりあえず事なきを得た。
ビビアンいわく今回のケルトの熱の原因は、風邪でも他の病気でもなく、急激に膨れ上がった魔力。発熱と同時に背や髪、爪などが伸びる。魔力の強い魔物の成長期によくみられる現象で、熱やそれに伴う痛みがおさまるまでに最低でも一年。それが竜種ともなれば、痛みの強さも期間も、並の魔物よりずっと多くかかる。
だが、その症状をやわらげるという鎮静薬の主原料も、マシェリが図書館の本で見た限りでは風邪薬と同じ魔花。
いずれにせよ、水竜の亡骸の発見は急務だ。
(今は他のことに心を囚われてる場合じゃないわ)
グレンへの追及はひとまず後回しにしよう。ケルトが眠る魔本の表紙を撫でながら、マシェリは決意を新たにした。
「ただいま戻りました」
「ああ、ご苦労さま。ビビアン」
「先ほどの魔術師には丁重に謝礼をし、口止めの誓約をした上で席にお戻り願いました。……しかしこの列車、何度行き来しても揺れひとつありませんね。少々薄気味悪いくらいに」
「さすがは赤竜紋付きの魔道具、といったところか?」
「……申し訳ありません。わたし、なんだか胃痛がしてまいりました」
言われてみれば、とあたりを見回す。揺れはもちろん、外で聞こえたガタンガタンという大きな音も、まったく聞こえない。
まるで、列車ではない別空間にいるようだ。
(それにしても珍しいわね。あのビビアン様が弱音を吐くなんて)
ドアにもたれて立つ姿も、どこかそわそわと落ち着かない様子。もしや食あたりでも起こしたのだろうか? マシェリは思わずにやりと口端を上げた。
「顔色が真っ黒ですわよ。隣で少しお休みになられたほうがよろしいんじゃありません? ビビアン様」
「わたしはごく正常です。貴女こそ、そんなことを仰って大丈夫なんですか? マシェリ様」
「……それって、どういう意味ですの?」
「貴女は勘が鈍すぎる、という意味です」
体調と口の悪さが比例しない男だ。ギロリと睨むも、氷のごとく冷ややかな目で一蹴された。
「では殿下。お言いつけ通り、わたしは隣の部屋で休ませていただきます。何かありましたらお声掛けを」
「ああ、くれぐれも忘れ物などしていかないようにな。特に奥の寝室には」
「……。ございませんので大丈夫です。では、おやすみなさいませ」
ビビアンは挨拶もそこそこに部屋を出ると、即座にドアを閉めた。
まるで魔王から逃げるがごとく素早さで。
(本当に様子が変ね。気のせいか、肩が震えてるようにも見えたし)
「──マシェリ」
そのひと声で、背筋が凍り付くかと思った。
後ろ向きで聞いた耳元から、ピリピリと全身に音が伝う。頭のてっぺんから足の爪先まで、まるで氷の鎖に縛り付けられたかのように動けない。
「殿下……? あの」
「君は、本当に無防備すぎる」
振り向く前にひょいと抱きかかえられ、混乱してる間に、寝室のドアがひとりでに開いた。普段あまり見ることのない、グレンの無詠唱の魔法だ。寝台横のランプに火が灯ると、閉じたドアが壁と同化し、一瞬で消える。──これは結界だ。ドキン、と心臓の音が跳ね上がる。
マシェリが横たえられたのは、ふたりで並んで眠るには少々せまい寝台。王都の借家と同じくらいの大きさだった。
けれどここに、境界線のウサギはいない。
故郷を離れ王都に住み始めて一年半。グレンはまるで親兄弟のように、気心の知れた友人のように。マシェリの好みや寝食に合わせ、歩幅を合わせ、傍らで寄り添い、ゆっくりと時を刻んできてくれた。
──だから、気付かなかったのだ。
(ふたりでいる時の目が……以前とはまるで違う)
それはマシェリのまだ知らないグレンだった。
月がなくとも、水竜の蒼い眼ではなくとも。漆黒のきれいな瞳の奥に、今にも喰らいつきそうな、獰猛な輝きがひそんでいる。
「魔王と会ったことを、何故すぐに僕に言わなかった?」
「……! 気付いて、たんですの?」
「当たり前だ。他ならぬ、君のことなのだから」
追及するはずが、追及されるハメになった。
どうしよう。オロオロしてる間に、手首を掴んでいたグレンの手がマシェリの指先と絡み合う。
ずっと触れていたら、溶け出しそうな熱を帯びて。
「僕は、君を誰より大切にしたい。だけど時々、めちゃくちゃに壊してしまいたくなるんだ。抱きしめて壊して。……粉々にして。君のすべてを、僕だけの番に変えてしまいたくなる」
「殿……下」
「ごめん、マシェリ」
いつもは優しい口づけが、今は少しだけ怖い。
唇に繰り返しかかる息も熱く、それが喉の奥へと流れ込むたび、体の芯まで蕩けてしまいそうになる。
首すじに触れる、かすかな吐息すらも。
(怖い、のに)
もっと深くと繋がりを求めてしまう。
「君は、僕への貢ぎものにされた被害者だ。出会ってすぐは嫌われても、国に帰ってしまっても仕方ないと思っていた。なのに……今はもう、君のいない未来なんて考えられない」
「……それは……」
(わたくしだって同じだわ)
グレンに嫌われたい、早く国に帰りたい。
そう頭では思っていながら、どうしようもなく惹かれていって。気付けば背を向けるどころか、かけがえのない唯一の男性になっていた。
今さら誰に何を聞いても、例えまた時が巻き戻ったとしても。きっとこの想いは揺るがない。
まっすぐにマシェリを見つめるグレンの、首に腕を回して抱きよせる。
初めて自分から重ねた唇は、ぎこちなく、小刻みに震えた。
「愛してますわ。殿下」
「……君はこういう時、いつも僕より先に言うよね」
「あら。ここから先は、殿下の言うことをいくらでも聞いて差し上げてよ? だって、約束しましたもの」
「なるほど。……だったらあと二時間。この列車が到着するまで、ずっと聞いててもらいたいな」
グレンの悪戯っぽい笑みは、出会った頃と何一つ変わりない。けれど互いの心に灯った火は、あの頃よりもずっとずっと大きく熱く、胸を焦がし続けている。
たぶん魔王の、赤竜の吐く炎よりも熱く。
「……背中のリボン、解いてもいい?」
「はい」
もう、心は決まっている。マシェリは素直に頷くと、グレンの手に背中を預けて目を閉じた。
後半の再開、最後までお読みいただきありがとうございました。
この先、作者多忙につき更新は二日か三日おきになります。しかし執筆は進めておりますので、第二部完結までどうぞお付き合いくださいませ!