16.魔界列車(後)
マシェリを見つめる、血塗れたような深紅の瞳。──これはいつか図鑑で見た、赤竜の眼と同じ色だ。
「魔……王? まさか」
『数百年ぶりの再会だ。夜の散歩と洒落こもう』
掴まれた手を振りほどく間もなく、気付けば魔王の腕に抱かれ、月夜の空に浮かんでいた。
眼下には、さっきまで乗っていたはずの魔界列車の赤い屋根。
「ちょうどいい、あれをふたりで歩いてみるか。レッドカーペット代わりに」
「ええ? あ、あの」
「いいからおいで。わたしたちの、婚姻式の予行練習だ」
ふわりと着地したとたん、再び手を取られ、有無を言わさず引っ張られる。まるでダンスのステップでも踏むように、魔王が軽やかに列車の屋根を駆けていく。混乱しすぎた頭では、風にあおられ転ばないよう、ついて行くのが精一杯だ。
後ろ姿の魔王は痩身で背が高い。繋いだ手はひんやりと冷たく、グレンよりも大きかった。
時折はしゃぐ声は、大人なのに子どもっぽい。
「ああ、最高だな。本体でないのが残念だけど、ヤヌシュに無理言って来てみてよかった」
「ほ、本体じゃない? それってどういう」
「魔王はおいそれと人界側には来れないからね。このわたしは竜の分身なんだ。魂のほんのひと欠片だし受肉してもいないから、おそらくはあと五分ほどで消え失せる」
言われてみれば、全体的に色素が薄い。
そう思ってまじまじと見つめていると、またひょいと抱き上げられた。そのまま高く飛び上がり、月を背にして滞空する。
「……不思議だな。やはり貴女は、いくつになっても愛おしい」
風になびく長い黒髪。彫りが深く、マシェリを見下ろす端正な顔立ちは、女性のように華やかな美しさ。普段グレンを見慣れているマシェリでさえ、つい見惚れてしまう。
(……じゃなくて!)
「はっ、離してください! 人さらい! 誘拐魔!!」
マシェリは腕の中で暴れ、手を振り回して魔王をポカポカ殴った。
だが、全くびくともしない。夜会服に似た黒ずくめの格好は思ったより中が薄着で、シャツの下はちゃんと筋肉質な男性の胸だと分かる。魔法にしろ物理にしろ、力ずくでは到底敵いそうにない。
「ひどいな。我が妻は愛らしい容姿に反して、実に辛辣だ」
「わたくしは殿下の婚約者です! 前世での婚姻契約なんて無効だわ。今すぐ解消して、わたくしを自由の身にしてくださいませ!」
こうなれば舌戦だ。いざとなったら、禁句で畳み掛けてやる。
鼻息を荒くするマシェリを、長いまつ毛の下の紅い瞳が静かに見つめてくる。
「ヴェラドフォルクの子孫、グレン・ド=フランジアか。未だ分別もつかぬ子どものようだったが、彼と貴女は本気で愛し合っていると?」
「もちろんです。でなければ婚約なんていたしませんわ。……それと、殿下はれっきとした成人男性。子ども扱いして馬鹿にするなら、魔王だろうとこのわたくしが許しませんわよ」
怒りをこめて見返すも、キョトンとした顔の魔王が首を傾げる。
「……ふむ。分かった、訂正しよう。貴女の婚約者は無邪気な子どもなどではなく、愛する者を一生欺き通すことも辞さない、単なる卑怯者のようだ」
「! な……んてことを仰るの? 殿下は」
「グレン・ド=フランジア。彼は貴女に、禁忌の魔法を使ったね」
薄く笑みを湛えた魔王が、淡々と語り出す。
そんなこと、わざわざ言われなくとも知っている。そう言って遮ることもできたのに、何故か口を挟めなかった。
グレンが禁忌の魔法を使ったそもそものきっかけは、足を怪我したマシェリを気遣ってのこと。足にぴったりで軽くて歩きやすい。とても気に入っていたのに、茨のアーチをくぐるとき片方は消えてしまい、もう片方は落としてきてしまった魔法の靴。
それを遅れて来たグレンが拾い、再会したテラナの城で、マシェリの左足に履かせてくれたのだ。
二度目の求婚とともに。
抱き上げられてめくれたドレスの裾からのぞく、透明な靴をちらりと見る。これはてっきり、治癒魔法の類だと思っていた。
(履き始めてかれこれ一週間。踵のマメと傷もそろそろ完治するけれど……ジムリが出してくれた薬と、自然治癒以上の効果があったとは思えない)
それに何より、マシェリにはずっと抱えていた違和感がある。もしもこれがただの治癒魔法なら、なぜ禁忌にされたのかという疑問だ。
「ここから先はわたしの憶測だが、もしかしたら君は、この魔法の効果を彼から聞かされていないのでは?」
「ッそれは別に……わたくしが聞かなかっただけですわ」
「なるほど。では、すぐにでも聞いてみるといい」
形のいい唇がニッと弧を描く。
「知ればきっと貴女は魔界に、わたしの元に留まりたくなる。グレンのいる人界になど、二度と戻りたくはなくなるさ」
「だ、誰がそんな……! わたくしは必ずフランジアに帰るし、ケルトだって、貴方には絶対に渡しませんわよ!」
「ケルト? ……ああ。二代目として置いてきた水竜のことか。心配しなくとも、アレを連れ戻すつもりなどないよ。そういう約束だったしね」
「約束?」
「──そろそろ時間だ」
魔王の頰に花びらの模様が鱗のように浮かび、パラパラと剥がれ落ちはじめる。
まさか、あの薔薇に擬態していたのだろうか。だとすればやはり、駅で出会った怪しげな白髪紳士は、魔王の手先だったのか。
(ビビアン様の言うとおり、ゴミ箱に放り込んでやればよかった)
ため息をつきつつ立ち上がる。
一瞬にして浴室に戻ったマシェリの視界に飛び込んできたのは、水だけが満杯に入ったバスタブ、それと主役の薔薇が消えた花束の残骸だった。
美しいレースのリボンを拾いあげ、そばのゴミ箱に放りかけた手が止まる。
『すぐにでも聞いてみるといい』
去り際に魔王が言ったひとことが、まるで呪いみたいにべったりと脳裏に張り付き、離れてくれない。
(今日会ったばかりの男のいうことになど、従いたくはないけれど……疑問を持ちながらずっと黙っているだなんて、それこそわたくしらしくないわ)
それに、グレンを卑怯者呼ばわりされたままでいるのも腹が立つ。
「……マシェリ。そろそろ水、溜まった?」
ドア越しのグレンの声に、心臓がドクンと波打つ。
確かめてみよう。──今、すぐに。
意を決し、マシェリはドアノブに手をかけた。




