13.人と魔物(後)
「どちらだろうと、貴方に選ばれる謂れはありませんわ」
「ほう。噂どおり、なかなか気の強い女だな」
胸を張って言い切るマシェリを、大公は鼻で笑った。
フランジアの国王と同じくらいの年齢のはずだが、顔のシワが深く少々老けて見える。その上、日に焼けたのかはたまた酒の飲みすぎか。全身の肌が妙に浅黒い。
「褒め言葉と受け取っておきますわ。それと、わたくしはマシェリ・クロフォード。赤髪姫などではございませんわよ」
「ふふふ、これは失敬。……しかしマシェリ嬢、君の前世である赤髪姫が魔王様と婚姻契約したのは事実だ。このまま無視し続ければいずれ、水竜が魔界に連れ戻されてしまうかもしれんぞ」
「ご心配には及びません。魔王様との婚約は解消するつもりですもの」
「解消するだと? 何を馬鹿な」
ため息交じりに「やれやれ」と、大袈裟に手を広げてみせる。
「話にならん。君は、自分ひとりが幸せになれれば、人界の皆が飢餓で苦しんでもかまわないというのかね?」
「貴方……わたくしに、喧嘩を売ってるんですの?」
したり顔で語る大公を、据わった目で睨む。──握りしめた右の拳が熱い。
使い鳥を『檻』に閉じ込めた時と、ごく近い感覚だ。
(でも、あの時よりもずっと強い)
手というか、全身に魔力が漲ってくる。
「お巫山戯は大概になさってください、大公閣下」
「僕らがこの国に来た目的は、魔石ランプの契約のためだ。貴方の悪戯に付き合うためでも、くだらない寝言を聞きに来たわけでもない。さっさと交渉の席を用意してくれ」
「ランプの契約など、そちらの言い値でかまわんさ。マシェリ嬢が大人しくこの『檻』に入ってくれるのならな」
諫めるビビアンとグレンの話に耳を貸さず、拾い上げた魔本をポンポンと愉しげに叩く。
「いいかい。よーく考えてごらん、マシェリ嬢。君の賢慮で人界の未来は救われるんだ。……わたしも、魔界での発掘権を得られるし」
本音はそれか。マシェリの中で、何かがキレた。
(少しは反省するといい)
右手を大公に向けてかざす。
無意識ではなく、明確に『檻』へ閉じ込める意思をもって。
「は……」
「……!」
詠唱しかけたマシェリを、温かい手が掴んで止める。
唇が『ダメ』と動き、衛兵の帽子がパサリと落ちた。
背中に流れる翡翠色の輝く髪。絵画から抜け出した天使のような、おそらくは今まで出会ったこともない美少年。
けれど、この綺麗な蒼色の瞳だけには見覚えがある。
「……ケルト?」
気付けば、白い頰に手を差し伸べていた。
指先に伝わってくる、温くて柔らかな感触。──幻などではなく本物の人肌だ。目をぱちくりさせるマシェリの傍らで、グレンが微笑む。
「やっぱりそうか。妙に僕と魔力の波長が似てると思った」
「気付いてらしたんですの? 殿下」
「うん。竜の魔力は強いし、とても独特だから。姿形は人間そっくりに擬態できても、隠し切るのは相当難しいよ」
「もっとも、気付いたのは殿下とわたしだけのようですがね。……しかし、どうして衛兵の格好を?」
「……」
ケルトが長い睫毛を伏せて俯き、唇を噛む。
「もしかして、まだ言葉は話せないんでしょうか」
「にゃ、にゃにゃーお」
怪訝な顔で小首を傾げるビビアンを、床にちょこんと座ったサラが見上げる。
それを見たグレンが「ふむ」と顎を撫でて考え込み、ポンと手を打つ。
「そうか、分かった。──ケルト。人間の声帯は竜と違うから、声を出しても大丈夫だよ」
「…………」
「……喋りませんわね」
というか、さっきから目をまったく合わせようとしない。
(まさか、まだ体調が悪いのかしら)
そういえば、やけに手が熱い気がした。不安に駆られていたところへ、グレンがそっと耳打ちしてくる。
「ケルトはたぶん、君に怒られると思ってるんだよ。勝手に抜け出して来ちゃったから」
「わ、わたくしはそんなこと……! 怒ってるのはむしろ、ちゃんと見張ってなかったイヌルに対してですわよ」
「分かってる。でも、今はそっとしておこう。体調とか、あとで色々と聞きたいこともあるし」
「……ええ。分かりましたわ」
そっぽを向いたままのケルトを、ちらりと振り返る。──せっかく、話ができると思ったのに。
(まあでも、今はこっちもそれどころじゃないか)
「何をそっちでゴチャゴチャ話してるんだ? わたしの話はまだ終わってないぞ、マシェリ嬢」
「話はもういいでしょ、お父様。さっさと赤髪姫を閉じ込めちゃってよ。早くしないと、お母様が帰って来ちゃうじゃない」
四方を魔法陣に囲まれたライアが、眉を吊り上げ、結界の隙間からマシェリを指差す。
その手を、ルドガーが本の角で押し返した。
「こらこら、人を指で差しちゃダメでしょ。……さて、そろそろこの場をおさめてもらうか」
「紋章付きの黄色い魔本……もしやそれは、ルシンキ公族のものですか?」
「そ、正解。さすが宰相様だねえ。実はこれ、やんごとなき御方からの預かり物なんだ」
白い歯を見せ、ニカっと笑う。
「やんごとなき御方?」
「うん、その御方がね。自分の預かり知らぬところで、大公閣下やライア様が魔王様と何か闇取引きをしたらしいって、俺に相談を待ちかけてきたのさ。だ、か、ら。俺がふたりの尻尾を掴むまで、この中に隠れててもらったってわけ。本人はお茶会に出かけたフリをしてね」
ルドガーが口元を押さえ、くすくすと笑いながら魔本を床に置く。
それを見た大公の浅黒い顔が、サッと青褪めた。
「まっ、まま、まさか……それ、は」
「ええー? やだなあ大公閣下、そんな引きつった顔しないでよ。愛する妻との感動の再会なのにぃ。ほら、笑って笑って」
黄色の魔本を開くと、大公がすごい速さでその場に平伏し、頭を床につける。
「わ、わたしが悪かった! 頼むから許してくれえぇ、オリビア」
「ふふふ。嫌だわ、あなた。お顔を上げてくださいな」
光とともに本の上に出現した美女が、ころころと笑いながら大公を見下ろす。
ライアと同じく、長い金髪に金ピカのドレス。小柄でとても愛らしいが、底知れぬ威圧感がある。さっきまで威勢のよかったライアも、怯えきった顔で目を見開き、結界の隅でガタガタと震えだした。
(周囲の空気が歪んで見えるのは、彼女の魔力のせいかしら)
「今はお客様がいらっしゃいますもの。そんな必死に謝らなくても、お仕置きなんていたしませんわよ。後からゆっくり、ね?」
「ひいぃい! ま、待って……」
泣き縋ろうとする大公を冷めた目で見下し、パチンと指を鳴らす。
一瞬で大きな体が霞と消え、黄色の魔本が光った。
(杖も詠唱もなしで『檻』に入れた? ……大公妃殿下のオリビア・グリ=ルシンキ。聞きしに勝る魔力の持ち主だわ)
大事な用のため今日は会えないと聞いていたのに、まさか居留守だったとは。マシェリは少々複雑な思いで、スタスタとライアに歩み寄っていくオリビアを目で追った。
「お、おかえりなさい、お母様」
「ただいま、わたくしの可愛いライア。どうしたの? こんなところに閉じ込められちゃって」
「ちっ、違うの。わたしはまだ何もしてないわ! なのに、魔王様から呼び出し状が届いてしまって……お母様、願い! いつもみたいにわたしを助けて!」
「……そう。貴女の言い分は、よく分かりました」
艶やかな唇が、わずかに弧を描く。
「ルドガー。この子、今すぐ貴方の『檻』に放り込んで、魔王城に送ってくださる? できれば速達で」
「はーい。間違いなく承りました」
「お、お母様⁉︎ どうして」
「どうして、ですって? そんなの、決まってるじゃない」
満面の笑みのまま、ライアに杖を突きつける。
「人界には人界の、魔界には魔界の法規があるの。守れない者が罰を受けるのは、当然の報いでしょう?」