9.ルシンキ公国
「心外だなあ。俺が林檎姫のことを吹聴なんてするわけないでしょ。プロの配達人として、客の守秘義務は当然なんだから」
「……マシェリ様は客じゃないでしょう」
「いいや? 林檎姫は王太子殿下の婚約者だ。国王陛下から承った五ヶ国分の速達書簡を、すべて配達し終えるまでの約二日間。俺にとって貴方がたは皆、りっぱな客だよ」
ルドガーはそう言いながら、石畳に置いた魔本を拾い上げた。
埃を払い、袖口の中へ放りこむ。どうやらこの白ローブも魔道具らしい。
「それに、今日一日かぎりとはいえ、林檎姫は俺の愛弟子。あの魔王様にちょっかい出されるのは気分が悪い」
「貴方、魔王様のことをご存知なんですの?」
「もちろん。魔物である使い鳥を飼うには、魔界からの特別な許可がいるんだ。一番始めの契約と更新が四回。魔王城には合わせて五回ほど行ってるし、その度に魔王様とも謁見してる。──耳、ちょっといいかな? 林檎姫」
ベンチに座ったマシェリに、ルドガーがそっと耳打ちする。
「あの魔王様はねえ。ひとことで言うと、幼女趣味の化け物なんだ」
「……」
聞き返されても面倒なので、『知ってます』とは言わなかった。
報せの官吏がまわってきて、待機時間が終了したのはそれから約二十分後。
ビビアンが殺気立った目で睨もうと、グレンが剣を抜きかけようとお構いなし。マシェリに絡み続けていたルドガーは、ようやくクルルを空に解き放った。
ルシンキ公国は、大陸を東と西に分断するカルティア山脈の麓、人界の真西に位置している。
国境を出てすぐにある深い森の一本道を通り、険しい山道を馬車でひた走ること約三時間。辿り着いたルシンキの首都は、高い塀にぐるりと囲まれた城塞都市だった。
塀の外側のすぐ下は、底の見えない深い堀。
一つだけある門に架けられた、長い橋を渡るしか通行手段はない。
「橋の袂に検問所があるんですの? ずいぶん馬車が並んでますわね」
「ほとんどが魔石や魔樹なんかの荷馬車です。検疫も兼ねているので、少々時間がかかるんですよ」
「出て来るのは輸出、あるいはレオストの工場行きの荷を積んだ、港へ向かう業者の馬車が多いかな。この国は、一般人の出入りが極端に少ないから」
「そう。他国から入って来るようなモノ好きは、年に数えるほどしかいない。なにせここは人界で唯一、魔界と行き来できる国なんだからね」
にこにこと笑いながら、ルドガーが隣の座席でふんぞり返る。
そのとたん、向かいの席のグレンがギロリと睨んだ。
「……で? なんでお前が、マシェリの隣に座ってるんだ?」
「えー? だって、ここしか空席なかったんだもん。そんなことより、馭者にちゃんと頼んでくれた? 王太子殿下」
「図書館への寄り道の件なら、さっき伝えておきました。しかし……本当に、マシェリ様も入れるんですか?」
「もちろん。まあ、見てれば分かるよ」
ルドガーはそう言って、窓の外に目をやった。
『ところで林檎姫。その透明の靴、〝蒼竜の加護〟だよね』
竜の魔石が生み出す魔力は、何ものにも代え難い〝加護〟になる。
魔界の王との契約ですら、打ち消せるほどに。
いかにも優しそうな垂れ目で、柔和な雰囲気の少年。けれど水竜がらみの話をする時だけは、気のせいかとても鋭く、真剣な眼差しをしていた。
(『禁忌の魔法とされているのはおかしい』なんて言われて、つい馬車に乗せちゃったけれど……ちょっと軽率だったかしら)
けれどもし、ルドガーの言ってることが本当なら、ずっと抱えていた違和感の説明がつく。
マシェリも窓の外を見た。昼下がりの空は、雲ひとつない晴天。橋を渡りきった先に視線を向ければ、よく整備された綺麗な街並みが広がっている。
「林檎姫はここ、初めてなんだよね? ほら、あそこ。街の真ん中あたりに見えるあの大時計の建物が、ルシンキで一番でかい図書館だよ」
「あそこなら、すぐ近くにレストランがあるはずです。待つ間、殿下とわたしたちはそちらで」
「いや。僕は図書館の前で待ってる」
切れ長の、黒曜石のような美しい瞳がまっすぐにマシェリを見つめてくる。
どこか不安げに揺れているのは、もしや──ヤキモチ?
(め、珍しい反応ですわね。陛下やガレス相手だと、怒ってばかりいるのに)
けれどぜんぜん嫌じゃない。頰を赤らめつつ、グレンの手を取る。
「なるべく、早く戻って来ますわ。……殿下のそばに」
「じゃあ、五分で」
「んー……。それは、ちょっと厳しいかなぁ」
苦笑いしつつ、先に馬車を降りたルドガーが手を差し出してくる。
「けど、大事なお客様の頼みだからね。できる限り善処するよ」
世界で唯一、魔界と人界の蔵書が揃っているというルシンキの都立図書館。石造りの三階建てで、屋根の上にはカラクリ付きの時計台、正面玄関の扉には大きな鍵があった。
「さ、林檎姫。その鍵穴に手をかざして」
「ええ」
赤い石がいくつも散りばめられた、金細工の美しい鍵。
(この石、家にある火竜の爪の魔石とそっくりだわ)
先が鋭く尖った三角の石。手のひらで触れてみると、少しだけあたたかい。
「扉の装飾に、月と太陽が刻まれてる。もしかしてこれ、魔界と人界を示す印ですの?」
「正解。よく気付いたね」
ルドガーがニッと笑う。
図書館の入り口は魔術師とその助手以外、通れない仕組みになっているらしい。
(弟子ならともかく助手って。そんな契約も約束も、した覚えはないのだけれど)
あっさり開放された扉を横目で見て、首を捻る。
「わたくし、貴方の助手になった覚えはなくってよ?」
「弟子は助手とほぼ同義だよ。それに俺は君を弟子として認め、君は俺から受け取ったリボンをククに結んだ。十分に契約として成立している」
広い通路を闊歩しながら、ルドガーが早口で言う。その歩きにも口調にも、まるで迷いがない。
「一番背の高い、太陽の印が刻まれた本棚の、上から二段目。左端のほうに並んでる蒼い背表紙が目当ての本だよ」
「場所、覚えてるんですの?」
「記憶を絞り出したんだ。なにしろ、王太子殿下のご希望が五分以内だったからね」
(本当に客扱いしてたのか)
気が合いそうだ。ふっと微笑み、マシェリも足を速める。
さいわい本はすぐに見つかり、ルドガーが記憶していた通りのページにその記述は載っていた。
「ほら、見てごらん。……水竜は左右の眼を蒼竜石として遺し、それらをもって〝蒼竜の加護〟の魔法は完成する、とある。禁忌の記述なんてどこにもない」
「ほ、本当だわ……! じゃあヴェラドフォルク様さえ見つけられれば、ケルトの風邪も治るし、わたくしの血盟も破棄できるんですのね?」
二つの問題が一挙に解決できるとは。思わず笑みが溢れたマシェリに、ルドガーが複雑な表情で頷く。
「……うん。魔界に無事辿り着けることを祈ってるよ。出来る限り早く、ね」