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「わたくしは逃げも隠れもいたしませんわ」
マシェリはグレンの襟首から手をはなし、乱れた衣を直した。
「どうぞ、お好きに断罪なさってください」
「……だから、陛下の前に出てこいと?」
「ええ。だって、より効果的でしょう? 身のほど知らずな女をやり込めるには」
不敵な笑みで見上げたマシェリに、グレンが目を見開く。
頭のおかしな女と思われたかもしれない。まあ、当たらずとも遠からずだが。謁見の間に向かわせるため、一番手っ取り早いと思ったのがグレンの怒りをかうことだった。
マシェリを妃候補から外したいなら、皇帝の許しを得るほかないのだから。
(罵倒するなりなんなり、殿下の気が済んだあたりで証明書へのサインをお願いしましょう)
渋る理由もないだろうし、すんなり承諾してくれるはずだ。あとはこのまま帰国するか、明日帰るか。ああでも、あの森だけには寄っていきたい。──と、なると。
「……殿下」
「な、なんだ?」
「大変申し上げにくいのですが、わたくしを城から叩き出すのは今夜でなく、明日にしていただけないでしょうか?」
「……。は?」
マシェリの言葉に、グレンが眉を寄せる。
「それはつまり、ひと晩城に泊めてほしいという事か?」
「はい。だって窓から水竜が見られるお城なんて、ここ以外にありませんでしょう? この機会を逃したら、きっとわたくし一生後悔しますもの」
「君は……水竜が怖くないのか」
グレンの漆黒の瞳が、初めて真っ直ぐにマシェリを見た。
性格は少しアレだが、この綺麗な目に見つめられながら話すのは悪くない。マシェリの口元が思わず綻ぶ。
「ええ。だって素敵じゃありません? 水を生み出せる魔物だなんて」
雨の降らない、役立たずな雨季の多いこの世界。
もし水竜が領地にいてくれたら、どれほど事業の役に立ってくれるかわからない。むしろ餌付けして、てなずけたいくらいだ。
目を輝かせて言ったマシェリに、グレンがくるりと背を向ける。
「……よく、分かった。とりあえず君は部屋を出ていってくれ」
「えっ?」
唐突な展開にマシェリは目をまばたいた。
そのまま、またも挨拶すらなしで、ビビアンに廊下へ追い出されてしまう。
(交渉失敗、という事かしら)
マシェリは壁に寄りかかると、ため息を吐いた。
よくよく考えてみれば、水竜は畏怖の対象。少しくらい怖がるそぶりを見せてやれば良かったのかもしれない。
でも、あの宝石みたいな瞳の前で嘘は吐けなかった。
(だって農業に水は必須だもの……!)
もし水竜をテラナ公国に連れて帰れたら、好きなだけ水使いほうだいである。
でかいとか食われそうだとかの恐怖心なんかより、そっちの方がよっぽど重要だ。
──仕方ない。森はいつか自分の足で見に行こう。マシェリは脱いだハイヒールを拾い上げ、ゆっくりと廊下を歩き出した。
頭の回転が早く、どんな時でも冷静沈着。突発的に起きた問題への対応能力の高さを皇帝に見込まれ、宰相の地位にまで上り詰めたビビアン。
彼は今、十数年ぶりに動揺していた。
「殿下、大丈夫ですか?」
恐る恐る声を掛ければ、グレンの肩がぴくりと動いた。
そのまま机に手をつき、項垂れる。
「……殿下?」
「一体、何なんだあの女性は」
ため息とともにグレンが言う。どこかイライラと、機嫌の悪い物言いに聞こえた。
「そう……ですね。まあ確かに、少々活発すぎる気はいたしましたが」
ビビアンは内心『まずい事になった』と思っていた。
フランジア帝国にとって、テラナ公国は外交上特に重要な国ではない。しかし正式な挨拶も交わさなかった上、然したる理由も無しにマシェリを妃候補から除外したとあっては、きっとあのご婦人が黙っていない。
マシェリの母にして、公国の元財務官の妻。お喋りで超有名なマリア夫人が激昂し、悪い噂を国内外で吹聴して回る恐れがある。
(殿下の正式な結婚の障害になりかねない)
皇帝は呑気に笑っていたが、ビビアンは宰相として、一番に国の利益を考えねばならない立場にある。皇太子であるグレンの相手は、最低でもフランジア帝国の侯爵家令嬢クラス、或いはいずれかの国の公女でなければ釣り合わないだろう。
皇帝の戯言でたまたま選ばれただけの、公国の伯爵家令嬢ふぜいを、フランジア帝国の皇太子妃として迎え入れるなどあり得ない。
もとより早々に追い出すつもりではあった。──だがそれも、数日城に滞在させた後もっともらしい理由を付けて、と考えていたのである。
今すぐ国へ送りかえすのはあまり宜しくない。ビビアンは、何とか取り成そうとした。
「あの、殿下……」
「ビビアン」
「はぃ?」
直ぐ様切り返され、思わず声が裏返る。
「教えてくれ。さっきから彼女の……マシェリの顔が、頭から離れてくれないんだ。僕は、これについてどう対処すればいい?」
目を見開いて覗き込めば、片手で顔を覆うグレンの顔が、耳まで真っ赤に染まっていた。それは公私ともに付き合いが長いビビアンですら初めて見る、酷く照れたような表情だった。
(まさか、恋⁉︎ あの跳ねっ返りな伯爵令嬢に?)
表面上では何とか平静を保ったビビアンだったが、内心ではひっくり返ってしまっていた。
(こんな事なら十四歳の誕生パーティーの時に、どこぞの公女との縁談でも仕組んでおけばよかった……!)
そこまで考えて、ハタと気付く。──そうだ。殿下はまだ、十四歳ではないか。
フランジア帝国の法律では、婚姻は男女とも十六歳からである。グレンは誕生日を迎えて間もない。つまり、万が一マシェリと上手くいったところで、結婚まであと二年は期間があるということ。
それだけの、時間があれば。
(これは単なる茶番劇。わたしはただ、殿下が目を覚ます手助けをしてさしあげればいいだけなのだ)
謁見の間へ戻ると、マシェリは皇帝の前で跪き、顔を伏せた。
「中座してしまい、大変申し訳ございませんでした。陛下」
「わたしが許したのだから、構わん。それよりグレンには会えたか?」
「はい」
(たぶん、相当嫌われたと思いますが)
当然だ。初対面の、しかも皇太子に対していきなり襟首を掴んだ上、暴言を吐いたのだから。
おまけに、発言も間違えた。皇帝の前でそれなりの叱責を受けることは避けられない。覚悟を決め、肩を竦めて待っていたマシェリの背後の扉が、ゆっくりと開く。
「遅れて申し訳ありません」
入り口には、皇族の正装である蒼色の衣に身を包んだグレンと、ビビアンが立っていた。
「来たか。……謝る相手はわたしではないぞ」
「分かっています」
玉座に向かって一礼したグレンが、マシェリの前までつかつかと歩み寄ってくる。
「長い間待たせてしまって申し訳なかった。無礼をどうか許して欲しい」
「は、はい」
黒曜石にも似たグレンの瞳が、戸惑い、狼狽えるマシェリを真っ直ぐに見つめてきた。