7.出立
一週間後──マシェリとグレン、それにビビアンの三人は、ルシンキ公国との国境に向けて朝早く出発した。
豪奢な二頭立ての馬車。護衛の騎士も左右にひとりずつ、馬に乗って併走している。
(同じ外国でも、テラナ公国に帰郷する時とは全然違って、なんだかとても緊張するわ……!)
傍らに置いた魔本を手に取り、膝の上に置く。茶色い皮表紙を撫でると、少しだけ落ち着いた。
「ケルト、ちゃんとご飯食べたかしら」
「大丈夫だよ。イヌルの話じゃ、昨夜もちゃんとリンゴを食べてたみたいだし」
「まあ、病状が芳しくないのには変わりありませんけどね」
向かいの席のグレンとビビアンが一瞬視線を交差させ、難しい顔で俯く。
「嫌ですわ、ふたりとも。そんな暗い顔をして……交渉の時に足元を見られてしまいますわよ?」
「わたしの顔が黒いのは元からです。だいたい、貴女が呑気すぎるんですよ。世界の危機がすぐそこまで迫ってるっていうのに」
「それは少しオーバーだろう、ビビアン。……まあ、水資源のことだけに関していえば、その通りだけど」
頬杖をつき、グレンが物憂げに言う。
マシェリたちの懸命の看病も虚しく、ケルトは風邪による体調不良が続いていた。
当然、水も生み出せない。
グレンから報告を受けた当初は傍観していた国王や大臣たちも、二日後には緊急対策会議を開催。そしてついに昨日、無期限の取水制限を決定。各国に通達する意向を表明した。
「年に一度の雨季は数ヶ月先な上、フランジア王国を含む各国の貯水率は、現時点の平均で五割程度。このままいけば年内に、数百年ぶりの大飢饉にみまわれてしまいます。世界の危機というのは、決してオーバーな話ではありません」
「まあ! 殿下にまで、そんな嫌味な言い方をしないでくださいませ」
マシェリは、斜め向かいの黒い顔をキッと睨んだ。
「薬になる魔花さえ見つかれば、ケルトの風邪は治るんでしょう? わたくし、血盟を取り消させるついでに、魔王から水竜の亡骸の在処を聞きだしてみせますわ」
魔王は魔物の眼を通じ、魔界の隅々まで見渡せるという。
水竜の──特に、恋敵だったヴェラドフォルクの死に場所を、彼が知らないはずがない。
「マシェリ。君の気持ちは分かるけど、それはダメだよ」
「殿下のおっしゃる通りです。魔王との交渉は我々がやりますから、魔界では大人しくしててください。貴女はあくまでも、殿下の付き添いなんですから」
「でも……!」
「国王命令です。──それが、貴女の魔界行きを認める条件の一つだったでしょう? 今さら異議は通りませんよ」
そう言って、カバンから取り出した書面の写しを目の前にひらつかせる。
マシェリはグッと詰まった。だが、どうしても反論しておきたいことがある。
「そっ、それは分かってます。けれど、第二条件のハンカチだけは納得いきませんわ! とてもいい出来の名入れ刺繍でしたのに、なぜやり直しを命じられたのかがわたくしには──」
「貴女が、男心をまるで理解してないからです。とにかく、了承して署名したからには言われた通りに動いてください」
細い目で冷ややかに言う。
心外だと言い返したいところだが、言われてみれば確かに、ハンカチをひと目見た国王は眉尻を下げ、分かりやすくガッカリしていた。
(せっかく上手にできたのに……一体何が気に入らなかったのかしら? 殿下は笑うばかりで、ぜんぜん教えてくれないし)
ため息をつき、ふと思いつく。
「ねえ、ビビアン様」
「……今度はなんです?」
「大人の貴方を見込んでお願いするわ。わたくしに、男心を指南してくださらない?」
「──なっ⁉︎ 何を馬鹿なことを!」
声を上げ、席を立ったとたん、ビビアンの体の表面が一瞬光った。黒い肌が白く変化し、銀髪の頭にポン、と小さな黒猫が現れる。
「「サラ!」」
「にゃ、にゃあーあ?」
合図もなしに突然剥がれ、びっくりしてしまったらしい。影猫が、大きな瞳をぱちくりさせる。
「……もう。おかしなこと言って驚かさないでください。疲れている時はただでさえ魔力が落ちて、サラが剥がれやすくなってるんですから」
赤橙色の瞳の美少年が、ぶつぶつ言いながら銀髪を掻き上げる。照れくさそうにそっぽを向く姿が、なんとも初々しい。
(こっちのほうが、威圧感がなくて話しやすいわ)
「ごめんなさい。でも、わたくしもポストぶりにサラを抱っこしたいし、しばらくそのままでいてくださらない?」
「にゃん!」
キラキラ目を輝かせ、黒い子猫がマシェリの膝に飛び乗ってくる。
ビビアンは身を乗り出し、「そこはひと月ぶりとかでしょう」と喚いたものの、諦めたように椅子に座り直した。
「この姿はどうにも落ち着かないんですが……実年齢とのギャップがありすぎて」
「僕と同い年くらいにしか見えないもんね。まあ、ビビアンの気持ちも分かるけど、ルシンキ公国との交渉にはそっちのほうが向いてるかもよ?」
「そういえば、大公閣下は反応のいい若者がお好きでしたね」
納得したように頷き、「ふむ」と顎をさする。
「ルシンキの大公閣下って、どういう方ですの? 前もって『発明好きな魔術師』とは伺ってましたけれど」
「それでだいたい合ってるよ。加えて、城を訪れた客人に自作の魔道具でいたずらを仕掛け、驚く姿を見ては喜ぶっていう悪癖もある」
「まあ、いわゆるド変態です」
ビビアンが真顔でキッパリ言い放つ。
「ただ、仕事に関しては真面目ですので、例の保冷庫についてはきちんと説明してください。それなりに話を聞いてくださいますから」
「ま、真面目なのに変態なんですの? わたくし、なんだか混乱してきましたわ」
「大丈夫、とって食いはしないはずだよ。……たぶん」
「にゃあーお?」
魔本にちょこんと座ったサラが小首を傾げる。
(本当に大丈夫なのかしら)
魔王より大公のほうが人格に問題ありそうだ。複雑な気持ちで窓の外に目をやると、国境の高い塀が遠くに見え始めた。
国境手前の停車場で馬車を降りると、三人は護衛の騎士とともにベンチのある広場へと向かった。軽食やお土産を売る出店まで建ち並んでおり、入国手続きの審査待ちの人々でけっこう賑わっている。
「では、わたしは管理局で手続きをしてまいります。殿下たちはこちらでお休みになられててください」
そう言いながら、フェイスベールを装着する。
(顔が黒でも白でも関係なしか)
マシェリは少々怪訝に思いつつ、立ち去っていくビビアンを見送った。
「マシェリ、のど乾いてない? そこの店の果実水美味しいよ」
「それならわたくしが買ってきますわ。ついでにミルクも」
「にゃっ、にゃあーん」
足にすりよる影猫とともに、カラフルな屋根の出店へと向かう。
「あっ」
少女の声、と同時に空へ向かって飛んでいく真っ赤なふうせん。マシェリは咄嗟に手を伸ばしたが、あと数センチのところで紐をとり逃してしまった。
ポカンと見上げる大きな瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
(ど、どうしよう。誰か……そうだ、殿下を呼んでくれば)
きっと魔法でなんとかしてくれる。踵を返したその瞬間、マシェリの目の前をバサバサと影が横切っていった。
「行け。クルル」
フードを目深に被った白ローブが、杖を振るう。
その声に従うように、緑色の鳥が翼に風をはらんだ。矢のような速さで空高く飛び上がっていき、風船の紐をくちばしで捕らえる。
「はい、これ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「礼なら頑張ったコイツに言ってやって。俺はただ、魔道具で操ってるだけだから」
肩に留まった鳥を指差し、白ローブの少年がニッと笑う。
その胸には、黄色の魔本を抱えていた。




