3.薬師
「あのなぁ嬢ちゃん。わしは一応、人間の医者なんじゃが」
寂しい頭頂部をつるりと撫で、医官のジムリが半眼で言う。
「そんなことは知っています。でも、病気かそうでないかくらいは分かるでしょう?」
「うーむ。しかし、人と魔物ではそもそも身体のつくりが」
「まあまあ。よろしいじゃありませんか、ジムリ先生」
ドアから顔を出した男性が、にっこり笑ってとりなす。
「少なくとも、マシェリ様より僕らのほうが病気には詳しいんですから。いっぺん診てあげましょうよ、ね?」
(さっき食堂で見た人だわ)
ひょろりと背が高く、頭上を気にしつつ、前屈み気味で入って来る。
やっぱり医局の新人だったのか。マシェリがじっと見ていると、視線に気付いたらしい男性が、深々と頭を下げた。
「初めまして、マシェリ様。僕はレネド・ゲヒナフ。先週からこちらの医局で務めさせていただいている、新米の薬師です」
「何を白々しいことを。あんたはカイヤニ公国で、薬師として十年ほど稼いどったはずじゃろう」
腕組みをしたジムリが、ただでさえしわくちゃの顔を、くしゃりと顰める。
こちらは小柄なため、その身長差はまるで大人と子ども。何か気に食わないのか、レネドを見上げるジムリの視線がやけに鋭い。
「城の医局に入ってわずか二年で、大公に引き立てられ、薬局長にまで上りつめたと聞いとるが」
「ええ。ただし無資格でね。ちゃんとした薬師として働くのは、こちらの医局が初めてで間違いありません」
にこにこと笑いつつ、過去の犯罪行為をさらりと暴露する。人は見かけによらない、とはまさにこのことだ。
だがこの際、出自や犯罪歴などどうでもいい。
「ケルトを診ていただけるのなら、貴方が何者でも構いません。とにかくふたりとも、湖まで一緒に来てください」
「こっ、こら。白衣が破れる!」
ジムリの抗議を無視し、白衣の裾を掴んで引っ張る。
(一応、医療カバンも持っていこう)
空いてる手を伸ばすと、レネドがひょいとカバンを持ち上げ、ニコッと微笑む。
「僕が持ちますよ。助手ですし」
「あ、ありがとう」
「お任せください。……ところでマシェリ様、殿下のほうは大丈夫なんですか? さっき、食堂でご一緒だったようですが」
「あ」
すっかり忘れていた。狼狽えるマシェリの肩を、レネドがポンと叩く。
「あそこにいる侍女にでも、言伝を頼んでおきましょう。おふたりは先に湖へ行っててください」
ずいぶんマメで機転のきく男だ。感心しながら、廊下を足早に歩いていくレネドを見送っていると、ジムリがぴたりと足を止めた。
「おい、嬢ちゃん。あんまり奴を信用するなよ。陛下が連れてきたもんじゃから、仕方なく置いてやっとるが……名前と年齢、城の医局にいたってこと以外、素性がまったく分からん男じゃからな」
「彼はどうしてフランジアへ?」
「それも分からん。ただ、陛下が外遊でカイヤニに行った際、王城の薬師をやらせてくれと懇願されたらしい。あんまりしつこいんで、資格を取れたら考えてやると言い残して帰国したら、猛勉強して一発合格したと手紙がきちまったんじゃと。しかも、たったひと月足らずで」
「まあ。相当優秀な方なんですのね」
国家資格である薬師の試験は、かなりの難関だ。通常は薬屋などで見習いをしつつ勉強し、合格するまで最低でも一年以上はかかる。
城の医局で数年働いていたとしても、そんな短期間で試験に合格するというのはごく稀な例だろう。
「だーから胡散臭いんじゃ。それだけ出来のいい奴が、今の今まで何故、無資格のままでいたのか。よっぽど何か、うしろ暗い過去があるのかもしれん」
ぶつぶつと言いながら、ジムリが再び歩き出す。
(だから不機嫌だったのね。でも、わたくしからすれば好都合だわ)
例え訳ありだろうと、そんなに優秀な薬師なら、ケルトの体調不良の謎も解明できるかもしれない。
後ろを気にしつつ、崖の長い階段を降りていく。半分ほど過ぎたあたりで、ぶんぶんと手を振る男性の姿が見えた。
「よぉ、姫。やっと来たか」
「ガレス? どうして貴方がここに……仕事は?」
「ちょいフケてきた。ケルトのことが心配だったからな。大好物の匂いでも嗅げば、起きてくるんじゃないかと思って」
そう言いつつ、背中に隠していたメロンの箱をひょいと出す。
「わざわざありがとう。あの……ところで、殿下は?」
「ターシャと少し話してから、執務室に戻ってったぞ」
「そ、そう」
「『早く終わらせよう』とかなんとか、呟いてたな。ひどく思いつめた表情で」
「おっ、終わらせる⁉︎」
マシェリの顔から血の気がひいた。
(まさか、婚約破棄?)
「わたくし、ちょっと執務室に行ってまいります!」
慌てて踵を返したとたん、ズキンと左足が痛む。
つまずき、前のめりに転びかけたマシェリを、力強い腕が抱きとめた。
「大丈夫? マシェリ」
「! 殿下」
心配げな顔を見て、愛しさがこみ上げてくる。マシェリは思わず縋りつき、グレンの胸に顔を埋めた。
「遅くなってごめん。急ぎの仕事だけ、先に終わらせて来たんだ」
「そんなこと……! 謝らないでくださいませ。わたくしこそ、いつもいつもひとりで暴走してばかりいて、本当にごめんなさい」
「構わないさ。だって、僕はそういう君が好きなんだもの」
「殿下……」
じわりと目頭が熱くなる。
この人と出会えて、愛し合えて、本当に良かった。
(離れませんわ。絶対に)
邪魔する者は、例え魔王だろうと許さない。
マシェリはグレンの軍服に頰をすり寄せ、きゅっと掴んだ。
「あれ? 殿下、もうここにいらしてたんですか」
ほどなくしてやって来たレネドも加わり、総勢五人が、寝ているケルトの周りを取り囲む。
それでもケルトはぐうぐう眠ったままだった。
「ううむ。水竜にしては熱が高いし、脱水症状も起こしとるようじゃな。何の病気かは分からんが、体調不良なのは間違いないじゃろ」
ジムリがケルトの体のあちこちに聴診器を当て、唸る。なんのかんのと言いながら、心配してくれているようだ。
「これは、確かに少し変だな。初対面のレネドがこんな近くにいても、眼を開きもしないなんて」
「そうですね。……ちょっと失礼」
高い背をかがめ、レネドがケルトの大きな口の上顎を掴む。そのままぐいっと上に押しあげると、おもむろに頭を中に突っ込んだ。
「おっ、おい! 何を」
「おやめください! 万が一、パクッと食べられでもしたら」
「ははは。爆睡してるから大丈夫ですよ。……ふむ。舌垢が白っぽくて厚めだし、口の中が少々乾燥しているな」
慌てるマシェリたちをよそに、レネドはさらに口を大きく開き、奥のほうを覗き込む。
「それなら胃腸関係かもしれん。喉の腫れはどうだ?」
「ええと、ちょっと待ってくださいね。中が暗くて、よく見えなくて」
レネドが牙を掴んで身を乗り出すと、わずかに巨体が揺れ、ケルトの瞼がピクリと動く。
「危ない!」
いち早く気付いたグレンが、レネドの白衣を掴み、ケルトの口から引き剥がす。
次の瞬間、大きなワニのような上顎が、ガチンと勢いよく閉じた。
ケルトがカッと蒼い眼を見開き、尻もちをついたレネドをギロリと睨む。
「……」
「は、はは。……本物だ。本物の水竜だ」
震えながらケルトを見上げるレネドの瞳は、少年のようにキラキラと輝いていた。