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フランジア帝国の皇城は、広大な湖を見下ろす崖の上に建っていた。
見上げるほど高い城壁は、皇城が〝城塞〟と呼ばれる由縁だ。城唯一の入り口がある西側は湖と繋がる深い堀に囲まれており、その上に架けられた跳ね橋を渡れば、鉄製の重々しげな鎧戸が侵入者の行く手を阻む。
「開門!」
鈍い金属音と共に開いた鎧戸を馬車がくぐり抜ける少し手前、マシェリは窓の外をちらっと見た。さっき通り過ぎた、大きな森が遠くに見える。
世界は今、乾季のためどの国の地面も乾ききっている。なのにあの森の木は、葉がどれも青々としていた。土に水がいきわたっている──もしかしたら、それも水竜に与えられた恩恵なのだろうか。
(あれならきっと、図鑑で見た野草も枯れずに残ってるわ。なんて素敵……!)
「大丈夫ですか? マシェリ様」
歓喜でつい、瞳を潤ませたのがいけなかった。隣のルドルフが、心配げにマシェリを覗き込んでくる。
背もたれに手を掛けられ、ややつり目がちな瞳が目の前まで迫ってくると、マシェリは思わず隅っこに体を押し込めた。馬車は決して狭くないのに、息苦しくて仕方ない。
「だっ、大丈夫ですわ。ですからルドルフ様、わたくしにはどうぞおかまいなく」
「そう、ですか? でもお顔が赤いですし、もしや熱でも……」
「体が丈夫なのが取り柄なので!」
ルドルフが額に伸ばしてきた手をぐいと押し戻すと、マシェリは窓の方を向き、ぜぇはぁと息をした。
(きょ、距離感がやたらと近い気がする……! これもテラナ公国と帝国の差なのかしら? それとも、わたくしの免疫のなさのせい?)
胸を押さえながらマシェリが振り返ると、にっこりと笑ったルドルフが前方を指さす。
「あそこが、殿下たちのおられる宮殿です」
煌びやかで巨大な宮殿が、夕暮れを背負い、勇壮な佇まいを見せていた。
中庭もまた、一周するのに一時間以上はかかりそうな広さ。さすがは五つの公国を支配下におく、帝国の皇城内である。父が言っていた『町がすっぽり収まるサイズ』という比喩表現は、どうやら大袈裟ではなかったらしい。
(ランプの油がどれだけあっても足りなそうだわ)
苦笑まじりに呟きながら、マシェリはルドルフとともに宮殿へと入っていった。
「詫びの品が林檎とはな」
本日、皇帝のご機嫌は麗しい。
テラナ公国からの貢ぎ物である赤髪の女を、それは興味深げな顔で、ジロジロと眺め回してくる。
(随分と無遠慮なのね)
マシェリは喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。──何しろ、まだ水脈は開放されていないのだから。
テアドラ湖の底にあるという、水脈の門を開閉するにはいくつかの条件がある。
一つ目が、水竜の左眼から作り出された魔石の『蒼竜石』。そして二つ目は、満月の夜であること。
次の満月は一週間後。もしここで皇帝の機嫌を損ね、延期などされようものなら、水脈の開放はそこから更に一か月も先になってしまう。
マシェリは努めて平静な表情を装いながら、玉座の前で一人跪き、皇帝の尊大な態度に耐えていた。
やたらと広い謁見の間の壁際には、紺色の衣を着た大臣六人と神官が佇み、扉の前には騎士のルドルフを含む護衛が数人控えている。
それと、皇帝のすぐ側にもう一人。
「ビビアン。グレンはまだ来ぬのか?」
(あの人、もしかして側近かしら)
一応見ておかなくちゃ。顔を伏せたまま、ちらりと視線だけ向けたマシェリが、一瞬ぎょっとして息を呑む。
顔が真っ黒だったのだ。炭でも塗り付けたかのように。
白いフェイスベールで口と鼻を覆っているのは、それを僅かでも隠すためか。しかし手袋をしているところを見ると、黒いのは顔だけではないのかもしれない。
銀色の短髪、瞳は薄いグリーン。年齢は不明だが、背筋をピンと伸ばして立つ、その様子からどことなく年若な印象を受ける。
「殿下は来ません。会う必要はないと仰ってました」
(……は?)
ビビアンの言葉に、顔を伏せたままのマシェリの眉根がぴくりと動く。──今、酷い侮辱を受けた気がしたのだが。気のせいだろうか?
「何? 仕様のないヤツだな」
皇帝がハッハッハッ、と大きな口を開けて能天気に笑う。マシェリの中で、何かが切れた。
「何がおかしいんですか?」
手をグッと握り締めつつ、立ち上がる。
「これが、他国から遠路はるばるやって来た淑女に対する態度なんですか?」
マシェリはそう言うなり、純白のドレスの裾をひざ上まで捲り上げ、靴を脱いだ。
「ちょっとそこの黒い人!」
「……黒?」
ビビアンが細い目を見開く。
「わたしの名はビビアンです」
「失礼。では、ビビアン様。わたくしを今すぐ殿下のもとへ案内してくださらない? 照れて部屋から出られないなら、こちらから迎えに行ってさしあげますわ」
皇太子に振られるのは想定内で、正直痛くもかゆくもない。だが水脈開放を確約させるには、登城証明書への皇太子の署名が必要なのである。
(連れて来なくちゃ……! 首根っこを捕まえてでも)
マシェリは脱いだ靴を手に、踵を返して扉の方へ行きかけ──はた、と立ち止まった。
(しまった)
玉座の上の皇帝が、無表情のまま静かにこちらを見つめている。
恐る恐る振り返ったマシェリの背中を、冷や汗が伝っていった。
「あ、あの……。陛下、申し訳」
「面白い」
皇帝が頬杖をつき、髭の口元に笑みを浮かべる。
「好きにするがいい。ビビアン、案内してやれ」
「……御意」
「ありがとうございます! では、参りましょうビビアン様」
マシェリは嬉々として頰を染めると、白いドレスの裾を翻しながら駆け出した。唖然としている大臣達の目の前を横切り、近衛兵が開け放った扉から、廊下へと飛び出して行く。
そのまま、マシェリは真っ赤な爪紅の足で階段を駆け下りていった。
「裸足で走るのは危ないですよ。その──マシェリ様!」
「何ですの? 用事なら後にしてくださいませ。それより、執務室はこちらの方で間違いないのかしら?」
長い回廊を抜け、もう一つ扉を開く。
分厚い絨毯が敷き詰められた豪奢な廊下をひたすら歩き、とうとう一番奥にある、ひときわ大きな扉にたどり着いた。
(アレね)
靴を放ると、ビビアンが止める間もなくドアノブに取り付き、重い扉を力任せに開く。なだれ込むように部屋へと入れば、奥の机に座っていた男性が顔を上げ、マシェリを見た。
黒髪に、凛とした切れ長の瞳。歳の割にほっそりとした頰から顎にかけての輪郭。彫りが深い目鼻立ちと比べて唇は薄く、真一文字に結ばれている。
二歳年下と聞き、マシェリが思い描いていたイメージとはだいぶ違う。目的を忘れ、つい見惚れてしまう程の美貌だった。
(綺麗な瞳……まるで黒い宝石のよう)
「誰だ? お前は」
怒りの表情を浮かべて立ち上がる男性を見て、マシェリがはっと我に返る。
「……まあ、『誰だ?』 だなんて。随分なご挨拶ですこと。わたくし傷ついてしまいましたわ」
「とてもそうは見えないが」
「上手く隠してるだけです。わたくしは、貴族の令嬢ですもの」
ビビアンの制止を振り解き、スタスタと皇太子に歩み寄っていくと、マシェリは淑女の礼をした。
白いドレスの肩に、深紅の髪がさらりと流れる。
「はじめまして殿下。わたくしはマシェリ・クロフォード。本日は妃候補としてのご挨拶のため、テラナ公国より参上いたしました」
「妃候補……お前がか?」
「殿下にも色々とご事情がおありのようですけれど」
マシェリはにっこり微笑むと、グレンの襟元をグイッと掴んだ。そのまま、息がかかるほどの距離までひきよせる。
「とりあえず、今は陛下の前にいらして下さい」
「なっ、何を……無礼な女だな! 誰がお前などと行くものか!」
慌てた様子のグレンが、マシェリの手を振り払う。
「わたくしに言いたい事があるのなら、後でいくらでも聞いてあげますから」
にじり寄り、マシェリはもう一度グレンの襟を強く掴んだ。
「ベッドの上で、ね」
「なっ?」
途端、グレンの顔が真っ赤になっていく。──この瞬間、確かに彼は十四歳の少年に見えた。