ふたりの境界線
一年半ほど前、王都の片隅に借りた庭付きの小さな一軒家。
小鳥がさえずり、窓辺には眩しい光が射し込んでくる。
実にさわやかな朝だ。
「よく晴れて、気持ちのいい日和ですわね。グレン殿下」
「僕の心は土砂降りの雨だけど」
「……。今日は休日ですし、王都に出掛けません? そろそろ応接間のクッションを新しいものに買い替えたいわ」
「そうやってまた話を逸らす。今日は意地でも譲らないからね」
「で、でも。本当にクッションは必要で」
「何がクッションだ! 買い換えるなら、このバカでかい抱き枕のほうが先だろう!」
そう言うなりグレンが投げつけてきたのは、妹のサマリーから貰った誕生日プレゼントの抱き枕。
『わたしだと思って抱っこしてね』のメッセージどおりの等身大で、可愛らしく微笑むウサギがプリントされている。
「きゃっ」
ウサギの枕を受け止め、マシェリは寝台の上に転がった。
ネグリジェの裾を手早く直して起き上がり、キッとグレンを睨む。
「ひどいわ! ウサギを投げつけるなんて」
「誤解をまねく言い方はよせ。それはウサギじゃなくて枕だ。いや、僕らを遠ざける疫病神だ」
「でも、貴方だってたまに抱っこしてらっしゃるじゃありませんか」
口を尖らせ、マシェリは自慢の真紅の髪をくるくると指に巻いた。
「そっ、それはこの抱き枕が寝台のど真ん中にあるから」
「わたくしの妹の等身大の抱き枕を、それはそれは心底愛おしそうに、ぎゅうっと朝まで抱き締めてらしたわね」
「……。そこはウサギと言ってくれないか」
「安眠枕ではなく?」
むう、と不貞腐れるグレンは実年齢の十五歳より幼く見える。
(……かわいい。でも、そう言うとすごく怒るのよね)
男心は難しい。そこがまた、愛おしくもあるのだが。
「寂しかったんだ。だって、君は寝台の上だと手を繋ぐのもダメだと言うし」
「最近また公務が増えたと、ビビアンから聞いています。睡眠はきちんととらなければ」
マシェリはグレンの隣に座ると、手を繋いで指を絡めた。
「……そんな色っぽい格好で隣に寝ておいて?」
「可愛らしいでしょう? このネグリジェ。父と母からの贈り物ですの」
大きく開いた胸元のフリルをつまみ、マシェリがにっこり微笑む。
グレンはそれを見て一瞬ポカンとし、艶やかな黒髪を掻きむしった。
「地獄だ……! 蛇の生殺しだ。というか君の家族は僕らに何がしたいんだ? くっつけたいのか仲を引き裂きたいのか、どっちなんだ、一体!」
「さあ。……でも、両方かもしれませんわ。この間母からは『マシェリの寝台を新調しました』なんて手紙をもらいましたし」
「は⁉︎ 嫁に行った娘の寝台を? なんで」
「それが、『帰郷用に大きな寝台にした』としか書いてないんですの。ね、変でしょう?」
「今すぐ帰郷しよう。ついでにこのウサギを君の妹に返品してやる」
寝巻きの膝を叩き、グレンが立ち上がる。
マシェリはその手から抱き枕を奪い取った。
「これはダメです! わたくしのウサギちゃんですもの」
「ダメだ。こんなものを置いておくと、僕らの距離がいつまで経っても縮まらない」
再びグレンが枕を奪う。それをまたマシェリが奪い──ついには寝台の上で、激しい引っ張り合いが始まった。
騒動に耐えかねたのか、黒い子猫がマシェリの影から這い出し、ドア下の小窓から出て行く。
「にゃあ」
またやってるよ、と小馬鹿にされた気がする。
それが嬉しくて、つい口元が綻ぶ自分はおかしいのだろうか?
(一年前のわたくしが見たら、きっとひっくり返って驚くでしょうね)
婚約を円満に解消してもらうため。ただそのためだけにこのフランジアへ来た。
グレンを知ろうとも、自分を解ってもらおうともしなかった。
「──隙あり!」
「あっ、くそ!」
勝者のマシェリが、グレンから奪い取ったウサギ枕を高々と頭上に掲げる。
ぜえはあと肩で息をしながら、悔しげな顔を向ける王子様を見て、マシェリはクスクスと笑い出した。
「朝から汗だくですわよ。湯浴みに行ってらしたら?」
「……いいねそれ。君が一緒なら行くよ」
グレンがさらりと皮肉交じりに返してくる。
また不貞腐れたのかと呆れて見れば、しょぼんと項垂れる様子が、まるで雨に濡れた捨て犬のよう。
黒曜石の瞳もうるうるして、涙が溢れんばかりだった。
「グ、グレン殿下。ごめんなさい、あの」
「判ってるよ。結婚するまではダメです、って言うんだろ」
「……祖母の遺言なんです。だから」
「ああ、君は実に誠実な孫だと思う。それに自慢の娘で、優しいお姉さんなんだろう。……僕には全然優しくないけど」
膨れっ面で顔を逸らし、ぶつぶつと嫌味を吐露する。
『婚約者が冷たい』と悔し泣きをして愚痴る王太子。こんな姿を国民が見れば、さぞかし幻滅することだろう。
「貴方は水竜王子で、わたくしはその花嫁なんですのよ? 強くなければ務まりませんわ」
「神殿のある魔界に一回行っただけだし。まだ結婚してないもん」
駄々っ子か。──でもまあ確かに、筋は通っている。
(言い分に矛盾があるのは寧ろわたくしのほうね)
「湯浴みの支度をいたしますわ。さっぱりしたら、王都に出掛けましょう。グレン殿下」
「嫌だ。僕はもう誤魔化されない!」
「あら、せっかくご一緒にと思いましたのに。嫌だったんですの?」
「……ご一緒?」
「ええ。祖母の遺言では、湯浴みの事まで止められてませんもの。……でも、やっぱりダメかしら?」
可愛らしく恥じらうなど、赤髪の強気な令嬢には不似合いだろうか。
そんな自嘲は、あの日ガラスの靴とともに脱ぎ捨ててきた。
「──ダメじゃない! それでこそ僕のマシェリだ」
「し、支度が先ですわよ? だからあんまり」
ぎゅうぎゅう抱き締められ、頰や唇に何度もキスを落とされる。
結局、湯浴みの支度を終えたのはそれから数十分後だった。
「もう、ネグリジェがしわくちゃですわ」
「それも今日買ってこよう。僕が選んであげるから」
「厚手でもこもこした寝巻きが良いわ。ウサギみたいな」
「いいね。……脱がせ甲斐がありそうだ」
体の芯が痺れるキスも、腰をなぞる指先にも慣れた。けれど首すじにかかる息遣いは、自分の知らない"男の人"のもの。
ボタンが一つ外れる毎にぴくりと肩が震える。
「……怖い?」
「く、くすぐったいだけです。水竜に噛まれた時と比べたら全然ですわよ」
虚勢を張るも、見上げた顔は髪色同様の真っ赤。説得力にまるで欠けていた。
二つ年下の王子様が笑いを噛み殺し、よしよしと頭を撫でてくるのが悔しい。
「愛してるよ。マシェリ」
「あら、わたくしのほうが何倍もグレン殿下を愛してますわよ?」
「なんでそこで挑むんだ? ……まあ、そういうところがマシェリらしくて良いんだけどね」
グレンが甘く微笑みながら最後のボタンを外し、マシェリのネグリジェをするりと脱がせ──ようとした瞬間、窓の外に雷鳴が轟く。
「……ずいぶん気の早い祝電だな」
「! まさかこれ、魔王様の雷ですの?」
青褪めるマシェリの問いに、空を切り裂く稲光が答えた。
読んでいただきありがとうございます!
※挿話は1〜5話ほどになる予定で、
第二部へのプロローグとなります。