伯爵令嬢のしあわせフラグ
「おーい、姫。コイツはどこに置けばいいんだ?」
チェストを持って狭い玄関に入ってきた、ガレスが二階に向かって呼びかける。
宮殿ならどこに置いても違和感のない豪奢な造りのチェストだが、このごく普通の一軒家にはふさわしい居場所がなかなかない。
「じゃあ、とりあえず応接間に置いておいて。移動するときは殿下にお願いするから」
エプロン姿で階段を下りながら、マシェリがさらりと言う。
それを聞いたガレスは、頰を引きつらせた。
「まさか、王太子殿下に荷物運びをさせるつもりか?」
「だって、本人がやりたいって言うんだもの。……でも、知らないうちに殿下の部屋の家具までどんどんここへ運んでくるものだから、部屋が狭くなってきちゃって。少し困ってるんだけど」
「まあ……さすがに天蓋付きのベッドまでは入らないだろうから、そのへんは安心しとけ。あと、これ置いたら俺は退散するからな。今日は教会のバザーがあるから」
「あら、もうそんな時間? ちょっと待ってて」
踵を返して階段を上り、戻ってきたマシェリは大きな籠を手にしていた。蓋を開けるまでもなく、漂ってくる甘い匂いで中身がなにか分かる。
「これを子どもたちに。今日のはチョコとアーモンド入りよ」
「ありがとう、姫。……このクッキー、ガキどもの食いつきがすごくいいんだよ。きっと喜ぶと思う」
ガレスは、籠をもつマシェリの手をきゅっと握った。
その手を、横から来たグレンがばしんと叩く。
「僕の妻に何してんの、鴉」
「──ってぇな! いいだろ、手を握るくらい。減るもんでもなし」
「ダメ。マシェリに鴉の邪がうつったら困る」
「うつるものなんですの? 邪って」
「とにかく、ここはもういいからさっさと教会に行きなよ鴉。今日は孤児院の改装工事の話もするんでしょ?」
チェストを持ち上げながらグレンが言うと「忘れてた」と、呟きながらガレスが駆け出す。
小さな庭から出て行く馬車に、マシェリは大きく手を振った。
「六年前の孤児院での火事、なくなっていて本当に良かったですわ。皇……いえ。王妃様が、生前尽力してくださったおかげですわね」
「うん。……だけど僕がいちばん驚いたのは、自分が王太子になっちゃってたことだけど」
苦笑いを浮かべるグレンに、マシェリも笑顔で同意する。
魔本から帰った後の世界では、五つの公国を支配下に置いていたフランジア帝国は事実上消滅し、もとの王国へと姿を変えてしまっていた。
その大きな要因は三十年前の満月の夜──王太子が、蒼竜石で水竜を操れなかったことだ。
さらに例の薬湯の効果か、体力が回復したコーネリアと王太子は無事結婚。即位後は賢明な王妃から国王への口添え──というか脅しにより、争いによる支配も水際で阻止される。恐妻家と化した国王は他国との交易に奔走し、王妃は得た利益で、各国の孤児の救済や魔物の密猟撲滅に力を注いだ。地道な活動が実を結んで密猟ゼロを達成した十年前、その功績を認められた王妃は、魔王から人界初となる感謝状をおくられる。
そして──テアドラ湖で産声を上げた二代目の水竜は、たまにもらえる貢ぎ物を楽しみに待ちながら、今ものんびりと水脈の管理を続けている。
「よいしょ、と。……とりあえず、チェストはここに置いとくよ。こっちの棚は、君の母上たちを迎えに行ってきた後、二階に運んであげるから」
応接室の窓際にチェストをおろすと、グレンは額の汗を袖で拭った。
王太子の婚約者になった娘のため、マシェリの父が奮発して王都に購入してくれた一軒家は、小さいながらも日あたり良好の優良物件。婚約パーティー後、喜び勇んで引っ越してはきたものの、物が多すぎて片づけがなかなか進まない。仕方なく、マシェリは母と妹に助っ人を頼んだのだった。
「お疲れ様です。お茶を淹れて差し上げたいところですけど……もうそろそろビビアン様が来る頃ですわよね」
「いや、僕らを迎えに来るのはルディだよ。ビビアンは今日、陛下と一緒にテラナ公国へ行ったから」
「もしかしてブルーナ公国の……アズミ公女様の婚約パーティー、ですか?」
「……うん。──あ、来た」
黒塗りの馬車が庭へ入って来るのが窓から見えた。馭者をつとめるルディの隣に、もうひとり誰か座っている。
「ユーリィも来たのか。相変わらず仲がいいな、あの兄妹は」
「殿下、先に行っててくださいませ。わたくし、二階に籠を取りにいってまいりますから」
「籠?」
「ええ。だって久しぶりに水竜と再会するんですもの。手ぶらで行くのは失礼でしょう」
マシェリはにっこり微笑むと、軽やかな足取りで階段を上がっていった。
一階は応接間も台所も、荷物だらけで置き場がない。避難させていたもう一つの籠を手に寝室を出ていこうとして、ふと振り返る。
ベッドの下に置かれた、片方だけの魔法の靴。
これをマシェリの足に履かせ、二度目の求婚をしてくれたグレンの姿を思いだし、つい悶絶してしまう。
「にゃっ?」
「な、何でもありませんわよ、サラ。心配は無用です」
コホンとひとつ咳払いし、心配げに見上げる黒い子猫を肩に乗せる。
籠を再び手に取ると、マシェリはパタパタと階段を下りていった。
「さ、お手をどうぞ。マシェリ様」
「ありがとうございます」
ルディに手を借り、馬車に乗り込む。
右目の下には小さな泣きぼくろ。姿形も、優しげな声も仕草も、ユーリィによく似ている。
(罪人に鞭打ちする人には、とても見えないわね)
「マシェリ」
手を引かれ、マシェリはグレンの胸に落ちた。
「今度はルディをじっと見つめて……君はどれだけ僕をはらはらさせれば気がすむの?」
「そ、そんなんじゃありません! 大体、そう言う殿下だって……あの夜会の日、アズミ様とお会いになられたんでしょう?」
「君の居場所に案内するサラの後を追ってて、たまたま会っただけだ。テラナの公子と婚約したことも、何とも思ってない。……というか君こそ、アディルとかいう男と顔合わせするつもりだったらしいじゃないか」
「わたくしだって、父に言われて仕方なく行っただけです。でも……でも、殿下は……! 初恋のお相手ですし、本当はアズミ様に求婚したかったんじゃないんですか? 伯爵令嬢のわたくしなん……っ」
だまれと言わんばかりに、グレンが唇を重ねる。
それははちみつより甘ったるく、毒より刺激的な口づけだった。
「ずるい」と言う代わりにその首に腕を回す。
誰よりも貴方に、そして貴方から──お互いに愛を伝えあいながら生きていきたい。
この、命の灯が消えるまで。
火照りきったマシェリの体を、グレンが強く抱きしめる。
「愛してる。……信じようと信じまいと、生涯僕の妻は、ただひとり君だけだ」
「……殿下。わたくしも……」
「はいはーい。貢ぎ物会場の湖畔に到着しましたので、とっとと降りてください。殿下、マシェリ様」
馬車のドアを無遠慮に開け、ユーリィが屈託のない笑みを浮かべる。
グレンは片手で顔を覆い、ため息をついた。
「ルディ……兄として、ユーリィにもう少し淑女の気遣いというものを身に付けさせてほしいんだが」
「……善処します」
空気を読んだ様子のルディが、恭しく頭を垂れた。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーっ!」
耳をつんざくような悲鳴が、夕暮れの迫る湖畔に響きわたる。
マシェリは嫌な予感がした。──いや、既視感というものかもしれない。
(まさか)
そろそろと半眼で、聞き覚えのある声の主を確かめる。
「きゃあああぁあっ! ──助けて! お母様、お姉様!」
やっぱりか。マシェリはがくりと肩を落とした。
一張羅のドレスを着た妹のサマリーが、湖面から首を伸ばした水竜に襟首を噛まれ、暴れている。
そして──あろうことか、水竜はそのままポイッとサマリーを湖に放り投げてしまった。
「サマリー!」
ハイヒールを脱ぎ捨て、駆け出す。
グレンを見て目を輝かせる母を押しのけ、桟橋の端に立つと、マシェリはでかいワニのような頭をキッと見上げた。
「わたくしの大事な妹に何をなさいますの? ──もう、ぼけっとしてないで、さっさと助けなさい!」
「無理だよマシェリ。水竜は、人間の命令なんか聞かないんだ。妹さんは僕が助けに行ってくる」
上着を脱いだグレンが淵に立った瞬間、水竜の蒼い双眸が光った。
眉根を寄せて腕組みをするマシェリを、じっと見つめてくる。
──まだ卵の中にいた、あの夜と同じように。
「報酬はわたくし手作りのクッキーよ。さあ、お行きなさいケルト!」
「にゃあっ!」
サラの鳴き声が上がると同時に、巨体がのっそり動きだす。
一度きりの人生の選択肢として──素敵な水の魔物を手なずける、王太子妃というのも悪くはない。
呆気にとられるグレンに、マシェリは淑女の笑みで振り向いた。
ここまで読んで下さりありがとうございます!
これまで第一部と題しておりましたが、続編を書く予定は今のところありません。これで完全な完結となります。
読者様、ブクマや評価をくださった皆様、レビュー、感想もいただき、とても励みになりました。
この物語としてはこれが最終ですが、作者がお蔵入りにした『裏エンド』(未公開作品)をこの後シリーズ[番外編]として公開していきます。
※ 旧作も改稿加えて同じシリーズに再公開予定
もし宜しければそちらもご覧ください!
本当に、今まで応援等々ありがとうございました!