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「林檎姫は初めて会うのかなぁ? あれがテアドラ湖の初代水竜、ヴェラドフォルク様だよ」
「ヴェラドフォルク……」
月光に照らしだされた、島のような翡翠色の巨体。
それがゆっくり動き出すと、少し離れた湖面から、ワニに似た大きな頭が現れた。てっぺんに二本ある角の辺りから首、なだらかな背にかけ、蒼色の豊かなたてがみが生えている。
「驚いた。まさか、本当に生きていたとはな」
『当然だよ。ぼくら魔物は人間と違って、嘘を吐いたりしないんだから』
「わぁっ。卵がしゃべった!」
『うるさい、犬っころ。──でも、どうしようかな。予定より到着が早かったから、代理を務める必要がなくなっちゃったし……リリアと相談して、その分の寿命をヴェラドフォルクに返さないと』
「……」
アイリスの言葉に、水竜が小さく首を振る。
『要らないって……そういうわけにはいかないよ。でなけりゃ金貨で返金か、代替の依頼でもしてもらわなくちゃ』
「本竜が拒否してるんだから、いいんじゃないのか? 返すといっても、どうせ数年かそこらだろう」
『失敬だな。ぼくの代理はそんなに安くないんだよ? 最低でも五十年程度は返せる』
「で、でしたら絶対に受け取るべきですわ! 不可抗力とはいえ、卵を逃したのはわたくしなんですし……責任を感じてしまいますもの」
つい大声を張り上げると、水竜が長い首をもたげ、蒼い右眼でじっとマシェリを凝視してきた。
──まさか、不興を買ってしまったのだろうか。
草食だと知ってはいても、その大きな口でパクッとひと飲みにされそうで怖い。頰を引き攣らせつつ、なんとか淑女の笑みを作る。
「は、初めまして、ヴェラドフォルク様。わたくし、マシェリ・クロフォードと申します。今はこんな姿ですけれど、本当は十七歳ですのよ」
「…………」
「貴方は、役立たずの雨季に苦しむ人界を救って下さった救世主。お会いできて、とても光栄ですわ」
「………………」
長い沈黙の後──水竜がガバリと口を開くと、中から足付きのまだら卵が飛び出してきた。
慌ててアイリスを草原に置き、卵を受け止める。
「やったあ、これでお仕事完了! ねえねえ、林檎姫。皇城に帰ったら、クッキーのおかわりお願いしてもいい?」
「はいはい、何皿でも焼いてあげるわ。……あっ、待って!」
背を向け、ずぶずぶと湖に沈みはじめる巨体に向かって思わず叫ぶ。
「ありがとうございます、ヴェラドフォルク様! このご恩は一生忘れませんわ」
「……」
動きを止めた水竜が、ゆっくり振り返る。
長い首を伸ばし、マシェリの手に鼻先を擦り付けてきた。
(なんだか、ちょっぴり可愛い)
手のひらでそっと触れると、濃い翡翠色をした鱗は思いのほか滑らかで、絹のような肌ざわり。そのまま二、三回撫でてやると、ヴェラドフォルクが満足げに蒼い眼を細める。
「マシェリ、少し近付きすぎじゃない?」
「大丈夫ですわよ。だって、水竜は草食なんでしょう?」
「そういう意味じゃ……あっ!」
「え?」
グレンの声に顔を上げたとたん、強く肩を抱き寄せられた。
「恩なら、今ここで返してもらおう」
頰に触れる、柔らかな感触。
自分を見つめる蒼い右眼と目が合い、キスされたことに初めて気付いた。
翡翠色の髪を背に流し、穏やかな笑みを浮かべる美しい男性。マシェリを抱く手は白く、まるで氷のように冷たい。
「あ、あのっ……。貴方はいったい」
「ヴェラドフォルクだ。この姿では初めましてだったな、マシェリ」
「? 水竜も、会うのは初めてでしたわよ」
「ああ。そうではなく、人の──」
首元に剣の切っ先を突きつけられ、ヴェラドフォルクが言葉を切る。
蒼色に光り輝く瞳で、グレンが自分の始祖を、そして、フランジア初代国王の父を睨んでいた。
「マシェリを離せ、水竜。その女性は僕の大事な婚約者だ」
「婚約者、だと? ──笑わせるな」
細氷まじりの風が渦を巻く。
気付けば、マシェリは湖畔にひとり取り残されていた。慌てて辺りを見回してみると、満月が映る湖面の上で、宙に浮いたグレンとヴェラドフォルクが対峙している。
「マシェリは、愚かな皇帝の戯れ言により、無理やりお前への貢ぎ物にされた令嬢だ。お前が要らぬとひとこと言えば、今もテラナ公国で幸せに暮らせていたものを……! 断るどころか登城初日に求婚し、宮殿に住まわせて寝かせつけをさせた挙句、禁忌まで犯すとは。この、似たもの親子が。恥を知れ!」
「なんだと? それを言うなら、お前だって同類だろう! ……というか、とっくに隠居したはずの水竜が、何でそんな事まで知ってるんだ⁉︎」
「フン、まだ気付かないのか。わたしの子孫のわりに鈍い奴だ。──ならば二度と忘れられぬよう、その身に刻みこんでやる!」
高く掲げたヴェラドフォルクの手に、白く輝くムチが握られる。
その先端が蛇のようにうねり、グレンに向かっていった。跳ね返した剣が、たちまち柄まで凍りつく。
「ちっ、手の感覚が……! ムチに触れなくとも、魔法の影響を受けるのか」
「──殿下!」
魔力も体力もほぼ空の状態では、きっと次は避けきれない。思わず駆け出すマシェリの目の前で、湖面から水が噴き上がった。
「テアドラ湖は水の精霊であるぼくの領域。何人たりとも、ここを血で穢すことは許さないよ」
水の壁がグレンをぐるりと取り囲み、ムチを弾き返す。
球体の魔法障壁。毛を逆立てたイヌルがひと声吠え、ヴェラドフォルクを青い眼で見上げる。
「わたしへの宣戦布告か? たかが精霊の分際で」
「うん。ぼくだって本当は怖いけど……もし皇子様が死んじゃったら国のみんなが困るし、悲しむもん」
「イヌル……お前」
マシェリはハッとした。水の壁ごしに見えたグレンの手が、完全な透明になりつつある。
足をばたつかせる卵をギュッと抱きしめ、唇を噛む。この場を去るのは気がかりだが、あまりのんびりもしていられない。
「アイリス、この卵は……水竜の卵は、森のどこへ置けばいいんですの?」
「ぼくが案内する。だけど、皇帝や皇妃もそろそろ来るし、見られでもしたら厄介だな」
黒猫に戻ったアイリスが、毛繕いをしつつ、ほぼ同じ姿形のサラをちらりと見る。
「そういえば君、影猫だったよね? 上手くぼくらを隠してくれたら、無能呼ばわりを返上してあげるよ」
「にゃんっ!」
『任せておけ』とばかり、元気よく返事をすると、サラが黒い靄へと変化。マシェリとアイリスの体に張りつく。
(まるで本物の影みたい)
というかビビアンそっくりだ。
手も足も、髪もドレスも真っ黒に染まった自分を見下ろし、マシェリは少々複雑な心境になった。