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(この子、殿下とそっくりだわ)
まるで絵画の天使のように美しく、端正な顔立ち。身につけているドレスは上等なものだし、所作一つとってみても品がある。おそらくは上流貴族に違いないが、グレンの反応は薄いし、知り合いや親族ではなさそうだ。
膝の怪我にハンカチを巻いてやりながら、マシェリはチラチラと少女を見た。七、八歳くらいだろうか。美形ではあるものの、顔色がひどく青白い。
「ごめんなさい。その、ハンカチを汚してしまって」
「それは構いませんけれど、貴女、顔色がとても悪いわ。休んでいかなくて大丈夫ですの?」
心配して尋ねると、草原から立ち上がった少女が苦笑いで振り返る。
「平気よ。わたし、生まれつき体が弱くって。大体いつもこんな顔色なの」
「だったらこの薬湯を飲んでいくといい。少し苦いが、元気が出るぞ」
「ありがとう。……まあ、可愛らしいお茶」
カップを差し出すグレンの瞳は黒く、首元の鱗も魔法で人肌に変化させていた。
──誤魔化せるのか。感心すると同時に、はたと気づく。
(じゃあやっぱり、わたくしにあの姿を見せたのは……わざと?)
改めて頰が熱くなる。
のどが乾いていたのか、少女はカップを受け取ると、薬湯を花ごとゴクゴク飲み干してしまった。
「ああ、美味しかった。ごちそうさま」
「の、飲みにくくなかったかしら?」
「いいえ。わたし、苦いの得意なの。甘いジャムよりマーマレードのほうが好きだし」
マシェリはドキリとした。
はにかんだ笑みも仕草も、味の好みまでグレンによく似ている。
他人のそら似にしては、あまりにも──
「あのっ。もしよかったら、貴女のお名前を」
「それ以上のおしゃべりは厳禁だよ」
耳元でアイリスが囁く。いつの間にか肩に乗り、紅の眼でマシェリをじっとりと睨んでいた。
「遊んでる時間はないし、その子とはさっさと別れて。君たちの目的はあくまでも、この世界に水竜の卵を返すことなんだからね」
「……分かりましたわ」
「ごめんなさい。わたし、そろそろ殿下のところに行かないと。……これ、よかったら貰ってくださらない? 汚してしまったハンカチの代わりに」
さっきよりも赤みの増した頬で、美少女が微笑む。
差し出された絹のハンカチには、名入れ刺繍が施されていた。
「コーネリア・ラドシエル……?」
どこかで聞いたような名だ。
「にゃっ! にゃー、にゃにゃん!!」
「サラ⁉︎」
歩き去るコーネリアを追って飛び出す子猫を、慌てて取り押さえる。
また捜索するハメになるところだった。
深く息を吐くマシェリの足元に、グレンがかがみ込む。
「……母上……? まさか」
地面に落ちたハンカチを、震える手で拾い上げた。
(聞いたことがあるはずだわ。コーネリアといえば、七年前に亡くなられたフランジアの皇妃様。……殿下のお母様だもの)
「バレちゃ仕方ないな。──そう、今行った女の子は未来の皇妃。で、さっき通ってった男の子が皇帝のカトゥール・ド=フランジアだよ」
「ここは、過去のフランジア帝国なんですのね? ……いえ。まだ王国なのかしら」
「そ。約三十年前のフランジア王国。当時、このテアドラ湖で一体何が起こったか。君ならピンとくるんじゃないの? 水竜皇子」
「ああ。昔、フローラに聞いたことがある。父上が八歳の誕生日を迎えた夜、湖で水竜の卵を見つけたのだと。……まさか、母上も一緒にいたとは思わなかったが」
その話ならマシェリも知っている。
卵から孵ったばかりの水竜のヒナを手懐けた王太子は、一番はじめにテラナ公国の水脈を閉じさせたのだ。大公が猛抗議したものの、話し合いは数年にわたって平行線をたどる。やむなく戦うこととなった両国だが、寄せ集めの兵ばかりだったテラナ公国は一か月ももたずに惨敗、フランジア王国の軍門に下った。その後ブルーナ、ルシンキ、ザオピオ、レオスト、カイヤニと、残りの五公国も同じ流れで掌握していったフランジア王国は、名を帝国と改めたのだ。
人界の平和が裏返った瞬間。それが、今まさに目の前まで迫っている。
「これで納得できたでしょ。逃げたのはここで発見される予定の水竜の卵で、ぼくはその代理なの。分かったらさっさと森に」
「お断りだ。──そういうことなら、僕は絶対に協力しない」
「殿下?」
マシェリの足元にいたアイリスに、グレンが剣先を向ける。その目は黒いまま、冷たく輝いていた。
「お前を森には置かないし、逃げた水竜の卵もここには戻さない。そうすれば、あの愚かな父が要らぬ力を持つことも、大勢の人間が無用に死ぬこともなくなるのだから」
「ふうん。人間のくせに、結構まともなことを言うじゃない。気に入ったよ」
アイリスのしっぽがピンと立ち、先が赤く光る。
その瞬間、グレンの剣が花束に変わった。
「わっ⁉︎」
「だから、ちゃんと教えてあげる。卵に化けたぼくを早く森に置いてきて。でないと君……消えちゃうからね?」
黒い子猫が、紅い双眸を細めて笑う。
「消えるって、どういう意味ですの?」
「にゃ?」
「お前は関係ないよ影猫。──どういう意味もなにも、あの皇妃は幼い頃から体が弱く、保護者の侯爵家夫妻に娘を嫁がせるつもりはなかった。水竜皇子の両親が結婚できたのは、愚かな男が皇帝になって、権力を振りかざしたおかげだからさ。……それを阻止すれば、結果がどうなるかくらい分かるでしょ?」
「と、嫁がせるつもりはないって……でも、ふたりは既に婚約が内定してるはずじゃ」
困惑しながらグレンのほうを向くと、風に流れる艶やかな黒髪が、月明かりに透けて見えた。
「殿下⁉︎ 体が……!」
「……ああ。口惜しいことに、確実に消えてきてる。魔力も一緒に」
「にゃあ、にゃぁーお!」
「だから無能は黙ってなって。……どう? これで分かったでしょ。この仕事にはリリアやぼくだけでなく、君の命もかかってるんだ。後戻りなんてできやしないよ」
ドロンと煙が弾け、黒い子猫がまだら卵に変化する。それと同時に、グレンの剣も元に戻った。
『さ、ぼくを森の中に置いてきて』
「……嫌だと言ったら?」
『君には言えないよ。だって、愛する人の泣き顔なんか見たくないでしょ?』
「貴方……! すごく嫌味な魔物ですのね」
グレンの腕にしがみつき、歯を食いしばる。──絶対に、泣いたりなんかするものか。
(こんな奴のいいなりになるのは死ぬほど嫌。でも、殿下が消えてしまうのは、その百倍くらい嫌だわ)
結局、言われた通りにやるしかない。
マシェリはグレンから手を離すと、卵を持ち上げた。
「マシェリ……!」
「貴方は何も悪くない。そもそも、卵を逃したのはわたくしなんですもの。未来への責任も罪悪感も、感じる必要はございませんわ」
「ええー? でも、林檎姫だって悪くないよ。あの卵が逃げ出したのはけいねんれっかで、封印が剥がれちゃったせいなんでしょう? ユーリィ様が言ってたもん」
そう言って真っ白な大型犬──もとい、水の精霊がパタパタとしっぽを振る。
唐突な展開に、その場にいる誰もが凍りついた。
「イ、イヌル? どうしてここに」
「うん! あのねえ。ぼく、湖に浮いてた卵を捕獲して、ユーリィ様に届けたんだあ。そしたら、持っていかれちゃったの」
「持っていかれたって、誰にだ?」
「えっとね、水竜! でもぼく、林檎姫のクッキー食べたかったから、頑張ってここまで追っかけてきたんだよ。えらい?」
得意満面な様子で、イヌルが湖を振り返る。
すると月明かりに照らされた水面が揺れ、ザバリと盛り上がった。