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『どうしてくれんのさ、この怪我』
まだら卵は激怒していた。
文字通り手も足も出ない状況下で、サラからの攻撃を受け続けた末路。くっきりとした真紅の三本線が、あちこちに刻まれてしまっている。
『こんな卵、怪しすぎて誰も近付きゃしないよ。もし依頼を達成できなかったら、あんたたちのせいだからね!』
「ご、ごめんなさい。うちのサラが……その、少しばかり張り切りすぎちゃったみたいで」
「回復魔法は使えないのか?」
『無理だね。何か材料になる草か花があれば、薬に変えることはできるけど。ここにある植物は、すべて採取不可……』
卵が言葉を切り、フンフン、と鼻を鳴らす。
『ツクミの匂いがする。もしかして君、赤い花を持ってない? 人界の薔薇みたいなやつ』
「え? ええ。名前は知らないけれど、赤い花ならここに」
魔王に貰った花束をポケットから取り出して見せると、まだら卵がピョン、と飛び跳ねた。
『やっぱりツクミだ。それ、ぼくにちょうだい!』
「そ、それは構いませんけれど、匂いを嗅いだ魔物は酔っ払ってましたわよ?」
『それは雄蕊だけ。花びらと葉の部分は、回復薬として使えるんだ』
「分かりました。じゃあ、ここに置いておきますわね」
まだら卵の前に、花束をそっと置く。
「……なんだか、墓標みたいだな」
「にゃー」
「しっ。アイリスの耳に入ると、また騒ぎ出しますわよ」
『何をぶつくさ言ってんの? ティーセットを出すから、少し離れてなよ』
「ティーセット?」
『そ。ぼくは高貴な使い魔だからね』
ポンポンと煙が弾け、黒に金細工のテーブルとティーセットが出現。
四脚の椅子が囲むと同時に、宙に浮かんだポットの注ぎ口から湯気が上がる。熱湯を注がれたカップをマシェリが覗き込むと、からからに乾燥したツクミの蕾が花開いた。
(いい香り。……色も見た目も、ルドルフに淹れてもらった花茶とよく似てるわ)
『よし。それが冷めたら、ぼくに満遍なく振りかけて』
「この四つのカップを全部か?」
『そんなわけないでしょ。残り三杯は、花を分けてくれた君たちへのお礼。紅茶によく似た味の薬湯だし、人間にとっても滋養強壮に良いものだからね』
「ありがとう、アイリス」
『お礼に礼はいらないよ。ぼくはただ、人間に借りを作りたくないだけだから』
嫌味たらしいものの言い方に、少々カチンときた。
(いっそ、このままぶっかけてやろうかしら)
熱々のカップを手に持ち、卵の前に立つ。──その時、城の鐘楼の音が鳴り響いた。
涼しい風が頰を撫で、森の木々や草原を揺らしていく。夜空に浮かぶ雲が満月を覆い尽くし、再び顔をのぞかせると、漆黒だったグレンの瞳が蒼く輝きだした。
「殿下、目が……それに首元の鱗も」
「ああ。魔力が全身に漲ってきてる。……まるで、止まってた時が動き始めたみたいだな」
『みたい、じゃなくて動き始めちゃったんだよ! ──もう熱くてもいいから、その薬、ぼくにぶっかけて!!』
喚きちらす卵に、「じゃあ遠慮なく」と淹れたての薬湯を数滴垂らす。
すると手も足もないはずの卵が、ピョンと勢いよく飛び跳ねた。
『ぅあっちちちちち! やっぱり無理! 僕猫舌だし、ちゃんと冷ましてから優しく振りかけて!!』
「舌、というか体でしょうに。では、冷ます間に色々と説明していただこうかしら。……ねえ? 殿下」
「そうだな。まずは今いるここがどこなのか、詳しく聞かせてもらおうか」
腕組みをして見下ろすグレンとマシェリを、だらだらと汗をかいた卵が見上げてくる。
『どこって……ここは絵本の『檻』の中だよ。リリアがそう言ってたでしょ』
「確かに僕らもそう聞いた。だが、それはあり得ないんだよ。アイリス」
「あの絵本はわたくしも読みましたけれど、挿絵の城に鐘楼なんてなかったわ。現在の皇城にある礼拝堂は、五十年ほど前に増築されたものですのよ」
千年前に在るはずのない鐘の音。ハリボテの月光に反応し、変化し始めたグレンの瞳。
(それが異常などではないと仮定した方が、現実的な解釈に辿り着けるわ)
「ここはあの絵本の『檻』の中なんかじゃない。本物のフランジア帝国なんでしょう?」
『……それには答えられない。さっきも言った通り、依頼内容は秘密だからね』
「いいだろう。そっちがその気なら、こちらにも考えがある」
強情な卵をグレンがひょいと持ち上げ、そのまま桟橋へと向かう。
湖に向け、卵を掴んだ両手を突き出すと、悲鳴が上がった。
『きゃーーーっ!!! みっ、水!!』
「どうした? ここが本当に絵本の『檻』なら、ハリボテの湖に落ちたところで平気なはずだぞ。試してみるか? アイリス」
『だっ、ダメ! びっちゃびちゃに濡れるし、死んじゃうからやめて! ぼく、水が大っ嫌いなんだよおぉ!!』
「なら、わたくしたちの質問にちゃんと答えなさい」
『……分かったよ。でも、全部は話せないからね』
しぶしぶ了承した卵を草原に置くと、魔法の解けた黒猫がぐったりと横たわる。
「地面が……すんごく有り難い。ちょっとチクチクするけど」
「その草は先が少し尖ってるんですのよ。──さ、薬湯が冷めたわ」
頭からしっぽの先まで振りかけてやると、アイリスの体が一瞬光った。
「ツクミは魔物の亡骸を養分にして芽吹く、魔力を持った薬草なんだ。竜の魔花なんかに比べると効力はイマイチ弱いんだけど、なんとか傷は塞がったかな」
「よかった。体に害はなさそうですし、わたくしたちもいただきますわね」
「そうだな。積もる話はそのあとだ」
「にゃっ」
「……どういう意味さ。まさか君たち、ぼくの言ったことを疑ってたんじゃないだろうね?」
ギロリと睨むアイリスを知らん顔でやり過ごし、サラ用のカップを手に取る。
ふうふうと息を吹きかけ冷ましていると、なにやら言い争う声が、遠くから聞こえてきた。
(崖の階段に……人影?)
月明かりなのでハッキリと姿は見えないが、どうやら子どもがふたり、城から湖に降りて来たらしい。
「早く早く。こっちだよ、ネア!」
「ま、待ってください。ドレスの裾が──きゃっ⁉︎」
遅れてきた七、八歳くらいの黒髪の少女が躓き、見事にすっ転んだ。先を走る少年のほうはそれに気づかず、バタバタと行ってしまう。
慌てて駆け寄り、手を差し伸べる。
「大丈夫ですか? お怪我は……」
「え、ええ。大丈夫よ。ありがとう」
笑みを湛えた美しい黒曜石の瞳が、マシェリを真っ直ぐに見上げてきた。