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(……痛い……)
頰をざりざりと削られる感覚に、マシェリは薄目を開けた。
空には真ん丸な月が浮かんでいる。もしや、昏き森に逆戻りしてしまったのだろうか。
「にゃあ!」
額への猫パンチで完璧に覚醒し、目を見開く。
月明かりのおかげで、自分を覗き込む青い双眸と、黒い子猫の輪郭がハッキリ見えた。
「サラ⁉︎」
「にゃっ、にゃあーあ」
嬉しそうに飛び跳ねながら、横たわったマシェリの周囲をグルグル回る。
子どもの姿に変わっても、ちゃんと認識できてるらしい。
(匂いで判別してるとか? それとも、精霊だからかしら?)
その理由は定かじゃないが、警戒され、逃げられたりしなくてよかった。
「見たところ怪我もしていないようだし、いつも通り元気そうね」
なにより、消滅してなくて本当によかった。ホッとしながら、小さな手をついて起き上がる。
(祝福は消えても、幼女設定は残ったままか)
改めてガッカリしつつ、靴で踏みしめた草原に視線を落とす。先端が鋭く尖った、見覚えのある種類の草。これはおそらく、フランジア皇城の中庭で見た雑草と同じものだ。
(フランジアが舞台の絵本だから、当然と言えば当然なんでしょうけど……ずいぶんと凝った創りの『檻』なのね。目の前のテアドラ湖も、遠くに見える城や山の形まで、現実の風景とそっくりだわ)
話に聞いていた〝真っ暗闇で狭苦しい空間〟の『檻』とは、イメージがだいぶ違う。周囲をぐるりと見渡しながら、マシェリは小首を傾げた。──そういえば、またグレンが見当たらない。
探しに行こう。サラを抱き上げ、マシェリは湖畔を歩き出した。
「もう再会を果たしちゃったの? ずいぶん早いね」
「……殿下?」
背後から呼ぶ声に、振り返る。
麗しい笑みを浮かべたグレンの姿も、相変わらず少年のままだった。
「久しぶりだな、サラ。──来い」
「っにゃあ!」
マシェリの腕から飛び降りたサラが、差し出されたグレンの手に駆け寄り、スリスリと頰ずりする。
「とても懐いてますのね、殿下に」
「うん。なにしろ僕が赤ん坊の頃から母上の護衛をしていたからね、サラは。……母上が亡くなった後はずっとビビアンにくっついてて、姿を見なくなっちゃってたけど」
「にゃあ……」
サラの三角の耳がへにょ、と折れる。
(本当に、元気をなくしていたんだわ。皇妃様が亡くなってから、ずっと……)
マシェリはそっと手を伸ばし、しょぼくれている子猫の頭を優しく撫でた。
ゴロゴロ、とサラが気持ち良さげに喉を鳴らす。
「皇妃様って、どんな方だったんですの?」
「これは……嬉しいな。君が、僕の母上のことを尋ねてくれるなんて」
黒曜石の瞳を細め、グレンが優しく笑う。
「そこらを歩きながら話そう。ついでに、例の卵を探さないと」
「そういえば、見当たりませんわね」
「湖に落ちたのかもしれない。ちょっと桟橋まで行ってみよう」
グレンがマシェリの手に指を絡ませ、きゅっと握り締めてくる。
頰が赤らむのを感じつつ、サラを肩に乗せると、マシェリはグレンとともに歩き出した。
「僕の母は……幼い頃から病弱で、よく教会に通って祈りを捧げていたらしい。長生きできますように、とね」
「それで、皇妃になられた後もバザーの手伝いを?」
「うん。ただでさえ過酷な皇妃の仕事と、各国に出向いての孤児への支援、僕の子育てまで並行して頑張ってた。……そのせいで、元々短かった寿命が削られてしまったのかもしれない」
「殿下……」
寂しげな横顔が、昨夜オレンジを見つめていた時の姿と重なる。
『貴方のせいじゃない』と言ってあげたくとも、皇妃と面識がなく親を亡くしたこともない自分の言葉は、きっと薄っぺらく聞こえるだろう。
「本人もその両親も、結婚は望んでいなかった。でも七歳の頃に出席したパーティーで、当時王太子だった父上に見初められてしまってね。半ば強制的に、婚約を内定させられたらしい」
「まあ。……きっとさぞかし、ご両親は心配なされたでしょうね」
「あの父は昔から、権力で人の心までもねじ伏せてきたんだ。……テラナ大公や君にしたのと同じように」
きれいな漆黒の瞳が、真っ直ぐにマシェリを見つめてくる。
否定も肯定もできず、ちくんと痛む胸を押さえた時──ふと、違和感がよぎった。
グレンの目や首筋に、何の変化も起きていない。見上げた夜空には確かに、満月が輝いているというのに。
(『檻』の中だからなのかしら)
よくできた擬似空間だが、ここには風ひとつ吹いていない。卵を探して覗き込んだ湖面にも、マシェリの姿は映らなかった。
『ちょっと。あんまりウロチョロしちゃダメだよ』
突如、足元に現れたまだら卵に驚き、肩の上のサラがぶわりと毛を逆立てる。
「シャーッ!」
『うるさい無能。……少しばかり到着時間がズレちゃったかな。君たち、ここで余計なこととかしなかっただろうね?」
「余計なこと?」
『そ。たとえば草をむしったり、虫を殺しちゃったりさ』
「いいや。……だが、もし仮にやっていたとしたら、なにかマズいことでもあるのか? アイリス」
『別に。ここは絵本の『檻』の中だから、景観保持に努めなきゃと思ったまでだよ』
探るようにグレンが問いかけるも、アイリスはさらりとかわした。
(それにしても……喋る卵と話をするって、はたから見るとすごくおかしな絵面ですわね)
どこから声を出しているのだろう。かがみ込み、まだら卵をじっと見つめる。ツルツルした表面を思い切って撫でてみると、ほんのり温かい。
それに、なんだかじっとりと汗ばんできているような。
『ちょっ、どこ触ってんのさぁ! 手を離しなよ、このスケベ!!』
「どこって、卵の殻にしか見えませんわよ? 全部」
『全身デリケートなの。繊細なの、ぼくは。とにかく、もう触んないで!』
ぎゃんぎゃん喚く卵から離れると、放熱したのか白い湯気が立ち昇ってきた。
(猫の時の姿形はサラとよく似てるのに、性格が全然可愛くないわ)
取り扱いが少々面倒な使い魔である。
「言われた通り離したぞ。……で? お前をここに放置したら、僕らはもう帰っていいのか?」
『まだダメ。合図の鐘が鳴ったら、そこの茂みあたりにぼくを置いて。次の鐘が鳴るころ、森に出口が開くから』
「でも……置き去りにして帰って、貴方は大大大なんですの?」
『迎えが来るからへーき。傀儡にとっ捕まる無能な影猫なんかと違って、ぼくは優秀な使い魔だからね。自分が帰る方法くらい、ちゃんと』
「にゃあっ! にゃにゃあ!」
まだら卵を敵認定したらしいサラが、マシェリの肩から飛び降り、鋭い爪を卵にめり込ませる。
『痛ったあぁあぁぁい! 何すんのさこの無能! 甘ったれの陰気精霊!!』
「にゃぎゃーーっ!」
ガクガク震える卵に前足でしがみつき、後ろ足で蹴っ飛ばす。獣と化したサラに閉口するマシェリの肩を、グレンがポンと叩いた。
「……もう、二匹ともここに置いて帰っちゃおうか? マシェリ」