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「……なんで……」
まるで溢れた水のように、ヴェラドの唇から呟きが漏れた。
広い会議室の隅には、猿ぐつわを噛まされ、縄でぐるぐる巻きにされた皇帝が椅子に座っている。
つい先程まで、その皇帝と歓談していたルシンキとカイヤニの大公たちも、ヴェラドフォルクの手によって既に魔本に封印され、テーブルの上に放置されていた。
「登城してきたお客様方にはパーティーの中止を伝え、お帰り願いました。……どうかなさったんですか? ルディ様」
抑揚のない声に振り返れば、ひと仕事終えて戻ってきた宰相が、ドアの前に突っ立っている。
「……確認しよう。ビビアン、マシェリは今どこにいる?」
「どこって、ルディ様が『檻』に閉じ込めたのではないんですか? おそらくは、サラも一緒に」
「そのつもりだったんだが……これを見ろ」
自分でも半信半疑のまま、テーブルの上を指差す。
平置きにされた魔鏡に、ふたりの子どもが映し出されている。覗き込んだビビアンが、眉をひそめた。
「おそれながらルディ様。たしかに愛らしい赤髪の少女ではありますが、マシェリ様にしてはその……少々年齢が」
「いや、間違いなく彼女だ。それにこっちの少年は、私と同じ魔力を纏っている」
「同じ魔力? そっ、それでは、このふたりはまさか」
「グレンとマシェリだ。目を離していたから経緯はよく分からないが……神殿の扉を開き、魔界に入ってしまったらしい」
「──魔界ですって⁉︎」
ビビアンの声に、傍らの皇帝が目を見開く。
「んー! んー!」
「呑気に息子の心配をしてる場合か。賄賂を受け取り、ルシンキとカイヤニの大公の所業に目を瞑ってきたお前にも罪はある。奴らを魔界に連れて行く前に、わたし自ら罰を下してやるからな」
火焙りか、それとも水責めにでもしてやるか。……ああ、ダメだ。こいつには一応私の、水竜の血が流れている。
(それに、表向きはカイヤニへの出向ということで、わたしは人界から消える。万が一でも正体を吐露されたり、ユーリィへの風当たりが強くなっても困るしな)
グレンと同じく、鞭打ち程度に留めておこう。
なるだけ慎重にことを運んでいかなければ。ずっと苛まれてきた罪の重みを、二度とこの身に背負うことがないように。
偽物の左目がズキリ、と痛む。
「『許さない』って、言われてるみたいだな」
「ルディ様?」
「何でもない。ふたりは森の管理者と出会ったようだし、おそらく危険はないと思うが……問題なのは、あの魔王だ」
「そうですね。無許可で魔界に入ったわけですから、下手をすれば魔界軍に捕縛され、連行されてしまいます」
(……連行? いや、違う。わたしが心配しているのはそのことじゃない)
左目を押さえたまま、ヴェラドフォルクはよろめいた。
自分は、何かとても大切なことを忘れているような気がする。ユーリィと出会った日よりずっと、ずっと昔のことを。
なのに思い出そうとすればするほど、手で掬いあげた水のようにこぼれ落ちていく。
「……卵、を届けないと」
「卵?」
「魔王は、マシェリみたいな赤髪の少女が好きなんだ。……だから、わたしが」
無意識に口を突いて出た言葉が、叩扉の音に遮られる。
「その話、私も混ぜてもらおうか」
「! 貴方は」
振り向いたビビアンの顔に、珍しく動揺の色が浮かぶ。
上質な夜会服に身を包み、ドアの前で腕組みをして立つ壮年の男性。指先でカチャリと眼鏡を掛け直し、顔を上げたのは──マシェリの父親であり、テラナ公国の元財務官でもあるゲイル・クロフォードだった。
(どうして……客は全部帰したはずなのに)
ヴェラドは思わず後ずさり、ゲイルに背を向けた。気取られぬよう、魔法で少しずつルドルフの姿に変化していく。
「久しぶりだね、ビビアン宰相……で、よかったのかな? いつもと少々雰囲気が違うようだが」
「はい。お久しぶりです、クロフォード卿。……本日は、ご欠席されたとばかり思ってました」
「まさか。娘の晴れの舞台に、顔を出さない父親などいやしないよ。事業の方でどうしても外せない用事があってね。少しだけ遅れるからと、マシェリには前もって手紙で知らせておいたはず……なんだが」
椅子に縄で縛り付けられている皇帝を、横目でちらりと見る。
「娘のことも含め、今が一体どういう状況なのか、詳しく説明してもらえるかな? ビビアン宰相。それと……あちらの彼は」
「え? ああ、あの方は皇帝側近の」
「──余計なことを言うな!」
叫んでしまってから、唇を噛む。
これでは、ルドルフの姿でこの場をやり過ごすことも出来ない。ヴェラドは中途半端な変身を解くと、ルディの顔を片手で覆った。
(そうだ。……いっそのこと、この男を亡き者にしてしまえば)
右眼が蒼く光る。その背後に、ゲイルが歩み寄ってきた。
「あー! ホントにヴェラドフォルク様だぁ」
間の抜けた声に、ハッとして振り返る。
顔を見たゲイルが、眼鏡の奥の目を見開いた。
「貴方は……六年前、湖で会った少年か? まさか、生きてらっしゃったとは」
「いいえ。その方は、フランジアの創始者である水竜のヴェラドフォルク様。その少年は……わたしの兄のルディは、診療所で亡くなっているはずです」
イヌルとともに会議室に入って来たユーリィが、ゲイルに応える。
青灰色の瞳には、今にもこぼれんばかりに涙が溜まっていた。
(ああ、また泣かせてしまう。六年前のあの日と同じように)
魔物の密猟の調査のため、久しぶりに訪れた人界。フランジアに行くつもりが迷子になり、ヴェラドフォルクがたどり着いたのは、テラナ公国のブルーム湖だった。
魔力とお腹が空っぽになり、せめてもの体力温存のため人型に化けた。一歩も動けず、草原に倒れていたところに声をかけてきたのが当時十二歳のユーリィと、十四歳だったルディの兄妹。ピクニックをしに湖に来たというふたりは将来有望な精霊使いで、一か月後からフランジアの皇城に仕えることが決まっていた。博識なユーリィは司書、正義感の強いルディは騎士。ヴェラドフォルクにサンドイッチの残りと紅茶を振る舞いながら、未来への夢と希望を語ってくれた。
草原で眠り込んだ自分を気遣い、空に宵闇が迫るまで──
その後ほどなくして、ユーリィは奴隷商人に捕まってしまった。
ルディは連れ去られた妹を取り戻そうと、武器を持った五人の商人たちにひとりで立ち向かったらしい。目を覚ましたヴェラドフォルクが異変に気付いて駆けつけた時、ユーリィには意識がなく、ルディは血まみれで既に虫の息。最期、妹に対する兄としての心配と、助けようとしてくれたマシェリへの感謝の言葉を残し──運ばれた先の診療所で、静かに息を引き取った。
「……わたしの、せいだ」
蒼い右目から、ボロボロと涙が溢れ落ちる。
「わたしが迷子にならなければ、わたしと出会ったりさえしなければ……! お前の大事なルディは死なずに済んだのに」
「だからってこっそり兄を埋葬し、身代わりになるなんて無理がありすぎでしょう。貴方ときたら、兄の苦手なものをパクパク食べるし飲むし。月夜には翡翠色の鱗が出ちゃうし。毎年毎年、命日になると墓が花で埋もれるし。……バレッバレじゃありませんか」
「に、苦手なもの? それは一体」
「紅茶です。あの日貴方が飲んだのは、兄の飲み残しだったんですよ」
ユーリィは泣き笑いの顔で、ヴェラドフォルクの頰に触れた。
「魔界に帰っても、たまにはわたしと家族の皆のことを思い出してくださいね。……兄さん」
「……ユーリィ……!」
(一番の愚か者は、私じゃないか)
力いっぱい〝妹〟を抱きしめながら、ヴェラドはテーブルの上の魔鏡に視線を向けた。